夕べ、テレビで、鈴木敏夫氏を観た。メインは、オリエンタル・ラジオの中田敦彦だったが、なかなか面白い番組だった。ま、それは、置いておいて。
鈴木敏夫は、言うまでもなく、スタジオ・ジブリのプロデューサー、天才・宮崎駿を支える鋭利で重厚な裏方。汚いジーパンに裸足で草履をはいた編集者。
ぼくは、鈴木敏夫の弟子にこそなるべきだった。こういうひとの下で仕事ができたら、修行ができたらと、心底から思う。
これは、確かに荒唐無稽な駄法螺の類ではある。しかし、尾形英夫という存在がある。当時から30年以上も経過した今の時点から、後知恵のように言えることではあるが。
大学を出るときに、尾形英夫の存在を知っていたら、ぼくの人生も、相当に違っていたに違いない。
尾形英夫は、1933年気仙沼市の松岩に生まれ、気仙沼高校から明治大学政経学部に進み、徳間書店に入社、月刊アニメージュの創刊編集長、のちに徳間書店常務取締役。宮崎駿の「風の谷のナウシカ」を連載、のちに映画化を図りプロデューサーを務めた。言ってみれば、アニメ作家・宮崎駿の生みの親。鈴木敏夫は、尾形のもとで、アニメージュの編集者、副編集長を務めた人物である。
若い頃のぼくは、それなりに生意気であったし、気仙沼の人脈を探って就職など思いもよらなかった。コネ、などというものは唾棄すべきものでしかなかった。
尾形英夫氏にしても、1978年といえば、45歳、東北の片田舎、気仙沼出身であるなどとは、隠すことではなかったにしても、おおっぴらに喧伝すべきこととも考えていなかったに違いない。
どちらにしても、端的に、ぼくは尾形英夫氏の存在を知らなかった。考えてみれば、同じく気仙沼の大先輩で、東京新聞の記者から、渡辺プロダクションに転じ、渋谷のパルコ劇場のプロデューサーを務めた境和夫氏のことも知らなかった。当時、池袋や渋谷のパルコを歩いて、新しい時代への希望を思い、公園通りに面したカフェで、行き交う人々を眺める時間を、ひとりでも過ごしていたぼくが、そういうことを一切知らなかった。
就職活動は、大学4年生の夏ころからだったように記憶しているが、出版社は集英社と講談社の2社のみ受験した。全部で、6社しか受験しなかったというのは、昨今の、何百社にエントリーしてみたいな話を聞くとまるで別世界の話だが。集英社は、1次試験で落ちたが、講談社は、数千人が受験した筆記は合格して、60人ほどの面接に残ったので、徳間書店に応募していれば、あながち合格していなかったとは言えない、と思う。そこで、気仙沼高校の先輩の存在を知っていれば、なお、可能性はあった、とは言えるかもしれない。
でも、徳間書店は、アサヒ芸能だしな、と。ああいうゴシップ系の週刊誌はぞっとしないな、とか、生意気なことを考えていたはずだ。経済的な状況からは、客観的に就職せざるを得ない状況だったのだが、主観的には、あんまり、就職はぞっとしない、プライドめいたこととか、興味として許せる範囲みたいなことばかり優先して考えていたように思う。
実は、集英社は少女フレンドで、講談社はマーガレットとかりぼん、その辺の少女漫画の編集者であれば、まあ、やってみてもいいかな、みたいなおごった考えだった。
まあ、あとは、広告代理店の電通(これは筆記は通った)と、レコード会社の東芝EMIと、花王のコピーライター募集の試験に落ちて、結果、洋服のメーカーのJUN(当時、VANとかJUNとか言った)のみに合格したというわけだ。それはさておき。
なにか、今になってみると、抽象的な情報しかもっていなかった。具体的な就職につながる情報を集めるということをほとんどしていなかった。編集者になりたいのであれば、もっと多くの出版社や、場合によっては、業界紙なども含めてアプローチすべきであった。振り返れば、いったい何を考えていたんだろうなと思ってしまうところはある。
というわけで、尾形英夫の存在を通してみれば、鈴木敏夫と繋がる線というのは、実はありえない話ではなかった、とも、今になれば思う。
鈴木敏夫の弟子として、スタジオ・ジブリの一角で、あれだとかこれだとか、コピーをひねり出す、みたいなことを仕事にしていた可能性はあるのだな、とまあ、夢想しなくもない。
などということを書いている、いまの生活も、まあ、悪いものではないのだろう、とも思う。
鈴木敏夫は、言うまでもなく、スタジオ・ジブリのプロデューサー、天才・宮崎駿を支える鋭利で重厚な裏方。汚いジーパンに裸足で草履をはいた編集者。
ぼくは、鈴木敏夫の弟子にこそなるべきだった。こういうひとの下で仕事ができたら、修行ができたらと、心底から思う。
これは、確かに荒唐無稽な駄法螺の類ではある。しかし、尾形英夫という存在がある。当時から30年以上も経過した今の時点から、後知恵のように言えることではあるが。
大学を出るときに、尾形英夫の存在を知っていたら、ぼくの人生も、相当に違っていたに違いない。
尾形英夫は、1933年気仙沼市の松岩に生まれ、気仙沼高校から明治大学政経学部に進み、徳間書店に入社、月刊アニメージュの創刊編集長、のちに徳間書店常務取締役。宮崎駿の「風の谷のナウシカ」を連載、のちに映画化を図りプロデューサーを務めた。言ってみれば、アニメ作家・宮崎駿の生みの親。鈴木敏夫は、尾形のもとで、アニメージュの編集者、副編集長を務めた人物である。
若い頃のぼくは、それなりに生意気であったし、気仙沼の人脈を探って就職など思いもよらなかった。コネ、などというものは唾棄すべきものでしかなかった。
尾形英夫氏にしても、1978年といえば、45歳、東北の片田舎、気仙沼出身であるなどとは、隠すことではなかったにしても、おおっぴらに喧伝すべきこととも考えていなかったに違いない。
どちらにしても、端的に、ぼくは尾形英夫氏の存在を知らなかった。考えてみれば、同じく気仙沼の大先輩で、東京新聞の記者から、渡辺プロダクションに転じ、渋谷のパルコ劇場のプロデューサーを務めた境和夫氏のことも知らなかった。当時、池袋や渋谷のパルコを歩いて、新しい時代への希望を思い、公園通りに面したカフェで、行き交う人々を眺める時間を、ひとりでも過ごしていたぼくが、そういうことを一切知らなかった。
就職活動は、大学4年生の夏ころからだったように記憶しているが、出版社は集英社と講談社の2社のみ受験した。全部で、6社しか受験しなかったというのは、昨今の、何百社にエントリーしてみたいな話を聞くとまるで別世界の話だが。集英社は、1次試験で落ちたが、講談社は、数千人が受験した筆記は合格して、60人ほどの面接に残ったので、徳間書店に応募していれば、あながち合格していなかったとは言えない、と思う。そこで、気仙沼高校の先輩の存在を知っていれば、なお、可能性はあった、とは言えるかもしれない。
でも、徳間書店は、アサヒ芸能だしな、と。ああいうゴシップ系の週刊誌はぞっとしないな、とか、生意気なことを考えていたはずだ。経済的な状況からは、客観的に就職せざるを得ない状況だったのだが、主観的には、あんまり、就職はぞっとしない、プライドめいたこととか、興味として許せる範囲みたいなことばかり優先して考えていたように思う。
実は、集英社は少女フレンドで、講談社はマーガレットとかりぼん、その辺の少女漫画の編集者であれば、まあ、やってみてもいいかな、みたいなおごった考えだった。
まあ、あとは、広告代理店の電通(これは筆記は通った)と、レコード会社の東芝EMIと、花王のコピーライター募集の試験に落ちて、結果、洋服のメーカーのJUN(当時、VANとかJUNとか言った)のみに合格したというわけだ。それはさておき。
なにか、今になってみると、抽象的な情報しかもっていなかった。具体的な就職につながる情報を集めるということをほとんどしていなかった。編集者になりたいのであれば、もっと多くの出版社や、場合によっては、業界紙なども含めてアプローチすべきであった。振り返れば、いったい何を考えていたんだろうなと思ってしまうところはある。
というわけで、尾形英夫の存在を通してみれば、鈴木敏夫と繋がる線というのは、実はありえない話ではなかった、とも、今になれば思う。
鈴木敏夫の弟子として、スタジオ・ジブリの一角で、あれだとかこれだとか、コピーをひねり出す、みたいなことを仕事にしていた可能性はあるのだな、とまあ、夢想しなくもない。
などということを書いている、いまの生活も、まあ、悪いものではないのだろう、とも思う。
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