ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

似非・小・糸井重里のようなもの (のつもりが、大江健三郎)

2012-02-19 23:36:56 | エッセイ


 高校生か大学生の頃、ぼくは、「言葉の専門家」になろうと思い立った。ぼくは、言葉の専門家にならなくてはならない。
 大江健三郎の小説かエッセイに、その言葉は書いてあった。
 たぶん、大江健三郎は、実生活では何の行動もできない男、何の役にも立たない男ではあるが、ただ、言葉を発する、言葉を書き連ねるということこそ、自分の役割だ、と思い定める、みたいな文脈で、その言葉を書きつけていた、と思う。
 ぼくは、もちろん、当時何ものでもなかったが(実は、今にいたっても何ものでもないのだが)、「言葉の専門家」にはならねばならぬ、と、大江健三郎にならって思い定めたのだ。
 「空の怪物アグイー」という文庫本の短編集が、最初の大江健三郎だった。それから「万延元年のフットボール」の文庫本。次に、たぶん、「洪水は我が魂に及び」の箱入りハードカバー上下2巻本を買って読んだ。始めて買ったハードカバーだった、と思う。豊饒な小説世界だった。めくるめく想像の世界。そうそう、図書館でも何冊か借りて読んだ。「個人的な体験」とかはそうだったかも知れない。
 小説とは、こんなにも豊かで面白い。リアルでくそ真面目な世界とは全く違う。リアリズムなどくそ喰らえである。小説は純文学に限る。日本の小説でありながら、全く和風でない。大江の生まれ故郷をモデルにした谷間の世界は、全く日本風ではない。どこか空想めいた別世界。アメリカでもヨーロッパでもないが、普通イメージされるような日本でもない。どこかピンボケで、ずれていて、間が抜けて、奇妙で、笑わずにいられなくて、途方もなく豊かだ。悲しかったり、貧相だったり、堅苦しかったり、は、一切ない。(「個人的な体験」は、初期の最後の頃の作品で、深刻でリアリズムっぽくはある。障害のある赤ん坊を授かったばかりのときだから、それはそうなんだろう。)
 渡邊一夫を通したラブレーの世界や、山口昌男を通した道化、トリックスターの世界の豊かさを消化吸収して、想像的に栄養たっぷりの小説世界が創造されていたのだろうな。
 大江健三郎の小説を読む楽しみ、幸福。
 大江の小説の喜び、豊かさ、笑いを受け継いでいるのは、それぞれ、ある部分では、としか言いようがないが、村上春樹であり、高橋源一郎だと思う。(もちろん、どちらも、ぼくがいま、読むことのできる数少ない小説家のひとりだ。)
 ふむ、大江健三郎の小説の正当なる後継者というポジションは、今の、日本の小説家のなかで、すっぽり空いた場所かもしれない。そこか!
 実はその後、「燃え上がる緑の木」という三分冊の小説の、二部まで読んで、某大新聞の著名記者がモデルと思われる登場人物の書き方に辟易して、読むのを止めて以降は、数冊しか読んでいないが、大江健三郎は、ノーベル賞貰うだけのものは、内実としてやはりある小説家だ。名作だから読むべきだということではなくて、とにかく読んで面白い。豊饒である。三島由紀夫は読まず嫌いで読んでいないので分からないが、「豊饒の海」なんかより、よっぽど豊かで面白い、はずだ。
 さて、ぼくは「言葉の専門家」たらんとして、小説家が無理だとすれば、コピーライターもありだな、と軽く思った。想像というか、空想というか、夢想というか。
 「おいしい生活」、糸井重里の路線で行くべきだ。ぼくは、糸井重里のエピゴーネンとなった。世の中にごまんといる小糸井、似非糸井。
 ということで、ここまでだとタイトルに偽りあり、となるが、続きは、また。渋谷と池袋のパルコのこととか。

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