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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

斎藤幸平 マルクス解体 プロメテウスの夢とその先 講談社2023

2024-09-21 14:52:47 | エッセイ
 『人新世の「資本論」』で一世を風靡している斎藤幸平である。東京大学大学院総合文化研究科准教授。専門は経済思想、社会思想、とのこと。
 ウィキペディアなどによれば、東大の理科2類に3ヶ月在籍後、アメリカへ渡って有名なリベラルアーツのカレッジで学び、大学院はドイツのベルリン自由大学の修士課程から、フンボルト大学の博士課程を修了したという。

【資本主義への処方箋、真の自由と豊かさ】
 この書物の帯には、こう書かれる。

「いまや多くの問題を引き起こしている資本主義に対する処方箋として、斎藤幸平は、マルクスという古典からこれからの世の中に必要な理論を提示する。…「自由」や「豊かさ」をめぐり21世紀の基盤となる新たな議論を提起する書である。」

 なるほど。
 この問題提起は、たいへんに重要なものである、と私は思う。
 現在の、競争に明け暮れ、順番付けにこだわり、利潤を追い求める社会、技術の更新と経済の成長のみに追い立てられる世界には、うんざりしている。真の自由、真の豊かさはない。
 どうにかならないものだろうか。
 この書物は、言ってみれば、真の自由、真の豊かさを求める試みであろう。
 上記の帯の文章の中略部分に、この書物の取り扱う問題は「マルクスの物質代謝論、エコロジー論、プロメテウス主義の批判から、未来への希望を託す脱成長コミュニズム論まで」とある。
 ここだけ読んでもよく分からないとなるだろうし、一般には、いまさらコミュニズムでもあるまい、マルクスなどありえないと素通りされるのが落ちであるが、ぜひ、取り組んでみる価値のある書物である。

【大洪水よ、我が亡き後に来たれ!】
 そこで述べられる理路をきちんと説明するのは、私の手に余ることで、あとは、各々書物を開いて見ていただければよいのであるが、何か所か引用してみたい。

「ドイツの社会学者シュテファン・レーセニッヒが主張するように、地球規模の環境危機の時代には山火事や洪水であれ、難民や移民の波であれ、時間稼ぎがもはや不可能になるなかで、「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」という資本家のスローガンは、「大洪水よ、我が隣人に来たれ!」となっている。この絶えざる転嫁こそ豊かなグローバル・ノースに蔓延する「外部化社会」の本質なのである。」(p.59)

 現代の社会は、沈みゆくタイタニックのバンケットホールで賑やかな饗宴に明け暮れている様にたとえられるが、グローバル・ノースに住まうわれわれは、地球規模の環境危機を、見えているのに見ないで暮らしているのだ。

【ディベートの悪弊に染められた連中】
 しかし、最近のテレビで、7人だか9人の40歳代から70歳代までの政治家が顔を並べているのを見るが、皆、経済成長が当然の前提と語っている。まあ、それはそう言わざるをえないのではあろう。大方の日本人は、そう思い込んでいる、あるいは、そう思い込まされている。
 そこで、ちょっと驚いたのだが、その過半はアメリカの大学やら大学院で学んでいる。ハーバードだとか、コロンビアだとか有名どころである。特に、そのうちの若手と言われる40歳代の面々は、アメリカ流の、ディベートで相手を打ち負かす訓練を積んだ、その悪弊に染められた連中にしか見えない。さらにいえば、その席には並んでいない、どっかの選挙の候補者だった人物とか、どっかの官僚上がりの首長だとかも含めて、その語り方を聞くと、ほんとに、そんなことしか学んでこなかったのかと心底がっかりさせられる。その場の言説の勝ち負けにばかりこだわっている、みたいな。
 しかし、斎藤幸平氏は、東大を中退してアメリカの大学に学んだにもかかわらず、そのへんの連中とは一線を画している、といっていいのではないか。

【カール・ポランニー】
 最近のヨーロッパやアメリカの、私の勉強不足で聞いたことのない学者だけでなく、ローザ・ルクセンブルクとかルカーチとかジジェクとか、もちろんエンゲルスとか様々な名前が取り上げられるなかで、ヴァルター・ベンヤミンは、個人的な思いとして引用したいところはあるが、カール・ポランニーのところを引用することとする。

「カール・ポランニーはかつて、「土地」「労働」「貨幣」は「擬制商品」であり、完全に商品化され、市場の指示に従属することがあってはならないと警告した。仮にそうなれば、社会的再生産は適切に機能しなくなり、社会は深刻な脅威にさらされることになる、とポランニーは言う。これら3つのカテゴリーは、資本主義のもとにおける完全な商品化とは両立不可能な、「富」の典型的な形式とみなすことができる。」(p.330)

 カール・ポランニーによれば、「「土地」「労働」「貨幣」は「擬制商品」」である。この含蓄は十分に噛みしめなければならない。それらは、商品のように扱ってはならないのだ。
 カール・ポランニーについては、その昔、経済人類学を標榜する栗本慎一郎の著書で勉強させてもらった。テレビのクイズ番組で人気者になった慶応大学の教授で、その後、自民党の代議士になった人物であるが、デビュー作の『パンツをはいたサル』とか、ブダペストについての書物とか、ずいぶんたくさん読ませてもらった。ポランニーについては、『エコノミーとエコロジー』の玉野井芳郎も参照している。サブタイトルは「広義の経済学への道」か、なるほど。

【脱成長コミュニズム、使用価値の経済】
 さて、あとはそれぞれ書物にあたって、とは述べたところだが、最後の方から、少し長くなるが引用しておこうか。

「脱成長コミュニズムは、所得と資源のより公平な(再)配分によって、自由時間を増やすだけでなく、自然環境への負荷を軽減するために、不要なものの生産量も減らす。加えて、広告、マーケティング、コンサルティング、金融といった分野における不必要な生産を削減することで、本来は不要な労働をなくしていき、過剰な生産と消費を抑制することも可能である。モデルチェンジ、計画的な陳腐化、絶え間ない市場競争に常に晒されることから解放されれば、それがウェルビーイング増大につながるはずだ。」(p.354)

 ここでいう「広告、マーケティング、コンサルティング、金融」とは、斎藤がいうところの「ブルシット・ジョブ」、本来は不必要な下らない仕事にほかならない。エセンシャル・ワークの反対物。

「資本を廃棄することによって、社会的生産は無限の経済成長の恒常的な圧力から解放され、その焦点をより使用価値の高い生産に移すことが可能になる。資本主義において、多くのエッセンシャルな部門が不十分な状態で放置されてきた以上、そうした分野はむしろ「成長」するだろう。より良い教育、ケア労働、芸術、スポーツ、公共交通、再エネを提供するために、資金と資源をより多く再配分することになるからである。しかし、これらの部門は、無限の成長を目指すわけではない。…年率3%で成長する大学など、馬鹿げているし、教育の質的向上も、GDPでは測ることはできないのだ。」(p.358)

 交換価値ではなく「使用価値」をこそ重視する経済では、「無限の経済成長」などは要らないし、あり得ないのである。

「新しい機械の導入で生産量が2倍、3倍になっていく産業部門とは異なり、看護や教育などのケア労働の生産性は同じように上昇することはない。それどころか、これらのケア部門においては、使用価値を劣化させ、事故や虐待のリスクを増大させることなしには、生産性を高めることができないことが多々ある。…社会が基本的な使用価値の生産を重視したエッセンシャル・ワークにシフトすればするほど、経済成長は鈍化することになる。一方で、ケア労働に代表されるエッセンシャル・ワークは環境負荷が低い。したがって使用価値経済は、脱成長と親和的であるとともに環境負荷も下げるはずだ。」(p.358)

【人間の経済、野放図な貨幣の力の抑制】
 ここまで読んできて、経済というもののあるべき姿について、私がこれまで読んできた柄谷行人、平川克美、神野直彦、宇沢弘文、佐伯啓思などなどと、基本的には同じことを言っていると思わざるを得ない。
 経済の成長だとか、利潤の追求だとか、グローバルなおカネの流通だとか、貨幣の持つ凶暴な力を野放図に放置し、あわよくばその恩恵にあずかろうとするひとびとが現代の社会に蔓延っている。そうではなくて、その強大な力をきちんとセーブしていく努力を、人間は怠るべきではないということだ。そうすることなしで人間社会は持続していくことができない。
 そんなのは、議論の余地もなく正しいことである。
 そこで、現時点で、一番の問題は、斎藤氏の言う正論を、どうしたら実現できるのかということだ。
 世の中の大多数は、成長神話に取り込まれてしまっている。
 どうしたら人びとは、その幻想から醒めることができるのか。
 どうしたら、人間らしい、本来の意味での経済、経世済民を実現できるのか。
 そして、そのための多数派形成は可能なのか。
 そこが、よく分からない。

【プロメテウスの夢、あるいはマルクスの脱成長コミュニズムの夢】
ちなみに、副題にあるプロメテウスの夢とは、理性でもって自然を支配し、人間の解放を実現しようとする試みである。理性、技術、科学による自然の克服。しかし、その試みは失敗する。破綻を免れない。人間は、ついに自然を支配し得ない。

「ギリシャ神話の神プロメテウスは、全知全能の神ゼウスの怒りによって火が奪われ、自然の猛威や寒さに喘ぐ人類に同情し、ゼウスを欺いて火を盗み、人間に与えた。はじめ、日を手に入れた人類は自然の力に打ち克ち、プロメテウスの願い通りに、技術や文明を発展させていく。ところが、豊かになっていく過程で人類は、火を使って兵器を作り、戦争で殺し合いを始めてしまう。…兵器だけではない。人類は…原子力のような自分たちでは制御できないリスクの大きい科学技術を発展させ、さらには大量の化石燃料を燃やすことで、地球そのものを気候変動の影響で燃やし尽くそうとしている。…「自然支配」という人類の夢…が私たちの暮らす文明の危機を引き起こしているのだ。」(p.7)

 私たちは、いま、自然を支配しようとする「プロメテウスの夢」から脱却して、「マルクスの物質代謝論による脱成長コミュニズムの夢」を追い求めなければならない、ということになるのだろう。
 しかし、私は、具体的には、どう行動することによって、その夢の実現に加担できるのだろうか?





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