今回は、本の紹介というよりは、ここで取り上げられた世界と、私の歩んできた道の拡がりの重なり合いを確認したい思いに駆られたというべきかもしれない。
社会の中で、詩を書くこと、詩を朗読すること、歌を作ること、歌を歌うこと、舞台に立ち芝居すること、街場で哲学すること。
朗読、という特集だが、詩と演劇との連関はここではそれほど前面に語られておらず、詩と音楽の近縁性というか、歌うこと、さらには踊ることと詩は一続きのものであるということが、主に語られている。
ここに記されていることは、十代の頃から、当時の『ニューミュージック・マガジン』(その後、ミュージック・マガジン)から学んだことと、ずいぶん重なっている。
【友部正人、フォークシンガーにして詩人】
冒頭は、友部正人の小詩集「1枚のレコード」。
2編目の同名作品、冒頭は、
「中古レコード屋で買った一枚のレコード
ジャケットもなければ解説もない
あるのは白い紙袋に入った一枚のレコード(以下略)」(p.11)
友部正人と言えば、私にとってはフォークシンガーである。幼なじみがLPレコードを持っていた。ジャケットは、セピアカラーの友部正人自身の顔写真だったように記憶する。高校時代というよりは、大学に入ってから、東京、中央線沿線の高円寺の古アパートの狭い部屋で聴かされたのだったと思う。ギター1本で地味に歌を歌っていた。歌っている世界、歌詞には派手なところがなく、言葉に神経を使っているように思えた、ように記憶する。
気仙沼に帰ってきてから、現代詩手帖を定期購読し始めて以降、あるとき、友部正人の詩(詞?)が掲載されていた。ほう、友部正人は詩人なんだと思った。詩人として扱われているんだ、と。いや、もちろん、然るべき言葉を書き、歌っているからである。
幼なじみの友人とは、最近また、バンドを始めた。”I shall be released”などを歌ったりする。
【佐々木幹郞、1969年の一枚のレコード、哲学カフェ】
特集としての冒頭は佐々木幹郞氏、「自作詩朗読と日本の詩について」。
氏は、「一九六九(昭和44)年に…日本の詩人たちの朗読の声を集めた「日本現代詩大系」…が四枚組のLPで刊行されている」と書き出す。参加した詩人の人名を取り上げることも必要であろうが、ここでは省く。
「一九六〇年代末期の時代は、まだ日本の詩人たちに詩の朗読があたりまえになってはいなかった。六〇年代の初めにアメリカのビート派詩人、アレン・ギンズバーグ(一九二六~九七)などの朗読活動の影響を受けて、少数の若手詩人たちによる声の実験が始まったばかりだったと言ってもいい。その時期に自作詩朗読を牽引し、さまざまな実験をしていたのは、このなかで吉増剛造一人であった。吉増氏はいまも最先端の朗読活動を続けている。」(p.18)
ちなみに「…飯島耕一は…朗読を拒否。…ついに晩年になっても詩の朗読をしなかった」といい、収録の飯島作品は吉増剛造が朗読した。現在では、「谷川俊太郎は、長男の…谷川賢作と組んで、年刊四五ステージほど、日本各地で朗読会を開催」しているが、「半世紀前の冊子では、…ためらうような文章を書いている」という状況であった。(p.19)
「詩の朗読は、実はわたしたちの耳の成熟度も問われている。ここで重要なのは、詩の朗読者は、朗読を聴く耳を持つ聴衆によって育てられるということだ。」(p23)
佐々木氏は、震災後、仙台のメディアテークで開催された哲学カフェに、鷲田清一氏の友人としてお出でだったことがある。テーマは、震災の遺物についてだったか。その際に、私は、自作の詩「船」を妻とふたりで朗読させていただいた。一般参加者の発言の枠内で、である。まさしく「震災の遺物」、陸に打ち上げられた漁船を描いた詩である。
妻とは、現在、朗読ユニット千田基嗣+千田真紀と名乗って、朗読活動を続けている。私なりに「気ままな哲学カフェ」と題して、冒頭に、私の詩も含む様々な詩や絵本の朗読をして、その後に語り合うという形にも取り組んでいる。(たとえば、吉野弘の「I was born」などは格好の材料である。)
佐々木氏は、とくだん、発言はされなかったように記憶する。ひょっとしたら、平場の一参加者としての発言は控えめにされたかもしれないが、ゲスト扱いの発言というふうではなかった、ということかもしれない。
【伊藤比呂美、パティ・スミス】
伊藤比呂美氏は、「声をつかまえる」と題して、
「同時期に私が影響を受けたのがアレン・ギンズバーグです。…私は、ニール・ヤングとか、ウェストコーストのロックが好きだった。…ジョニ・ミッチェルの詩は素晴らしかった…その頃、パティ・スミスが出てきて、これはハマった」(p.25)
パティ・スミスは、そんなに聴いていないが、ニール・ヤングやジョニ・ミッチェルは良く聴いた。
伊藤氏は、デビュー当時から、朗読にも熱心に取り組む詩人であったと記憶する。それは、現代詩手帖から得た情報に違いない。
【ビート、カウンターカルチャー、ギンズバーグ、スナイダー…】
原成吉氏は、「アメリカ詩を変えたポエトリー・リーディング」と題して、その歴史を紹介している。
「一九五五年十月七日の夜、サンフランシスコの「シックス・ギャラリー」で、アメリカ詩を変えるポエトリー・リーディングが開かれた。…このイベントはマイケル・マクルーア…の発案によるもので、アレン・ギンズバーグが企画して行われた。」(p41)
「二十世紀のアメリカ文学を知るうえでの重要な言葉として「ビート」がある。「ビート」の命名者は、…小説『オン・ザ・ロード』を書いたジャック・ケルアックだ。…それに続く小説として、ゲーリー・スナイダー…を主人公のモデルにした小説…を書く。この自伝的小説で、ケルアックがシックス・ギャラリーでのポエトリー・リーディングを詳細に描写したこともあって、いまではアメリカ詩の伝統となった感がある。」(p.40)
ビートとは、そもそも、ロックの、ブラック・ミュージックの拍、繰り返す鼓動である。激しく、力強く、あたかもえんえんと続く。
振り返って見ると、「このリーディングは、十年後のカウンターカルチャーという大きな時代のうねりを創造する最初の波紋といえるだろう」、そして「マイノリティの公民権運動、ベトナム反戦運動、反核運動などを推進するメディアとして世界各地に広まってい」き、「現在のヒップホップ、ラップ、スポークンワードといった声の文化もシックス・ギャラリーのリーディングと無関係ではない」という。(p.40)
私は、1956年生まれ、生まれる直前の出来事、その後のカウンターカルチャーは、私の十代を覆い尽くし、今に至るまでその影響下にあるムーヴメントである。中学生の時にロックバンドを組み、2年生の時に、地元の映画館で『ウッドストック』を観た。
「ギンズバーグは六〇年代になると、ボブ・ディランとの交友から、歌のもつ可能性を追求するようになり、…自らの詩をうたった。」(p.46)
【アフリカ、口承の伝統、アメリカ】
ボブ・ホールマンは、村田克彦を聞き手に、「詩の合衆国へアメリカのリーディング史五十年」を語る。
「…ぼくがもっとも妙味深く接してきたのは、口承の伝統を振り返ることだった。…多くのアフリカの詩人たちは、アフリカの外に出てしまうと、みなから詩人なのだという認識を持ってもらえないんだ。…彼らはいつもミュージシャンとして紹介される。でも、あらゆる文化において詩と音楽はつねにひとつ、それを切り離すことはたんに商品化の手段だ。」(p.52)
ヒップホップもポエトリー・リーディングの流れから生まれたといい、「ヒップホップは…ジャマイカからブロンクスにやってきたってよく言われるだろう。でも詩人たちはすでにヒップホップ的なことをしていたし、むしろヒップホップへと導いていったんだよ」、そして、ロックミュージシャンも、「パティ・スミスはセントマークス・ポエトリープロジェクトから出発している。…ルー・リードも詩人として出発して」いるという。(p.55)
いま、ルー・リードのアルバムをかけながら、この文章を書いているが、ある時期、CDをまとめて買い集めた。音楽自体としてもだが、アンディ・ウオーホールとの関わり、ニューヨークのアンダーグラウンド文化のなかにいたことが念頭にあった。
これらのことも、私としては、『現代詩手帖』、『ユリイカ』、『ニューミュージック・マガジン』から得た情報である。『鳩よ!』という平凡社の雑誌もあった。
【詩と音楽など】
岡本啓は「「百年後の夕べ」ノート」で、ポエトリー・リーディングは「音楽という快楽がすぐとなりにあり、工夫すればするほどかえってそちらにとりこまれてしまう。リーディングは、調子をくわえれば歌へ、ビートに重なればヒップホップへと位置をずらす。」(p69)と述べる。
巻上公一が「へんてこなる砂風」(p.70)という詩を載せている。「町田康に誘われて/熱海の海岸散歩する」で始まる。巻上は、もとヒカシューという日本のプログレッシブ・ロックのバンドで、ギター、ヴォーカルと、たぶん、作詞作曲も手がけていたと思う。いっとき、テレビにもよく出ていた。町田康は、なんとかいうパンクバンドのミュージシャンで、後、小説家だが、私は、名前以外はほとんど知らない。
城戸朱里は「響きの彫刻、響きのフーガ」で、白石かずこについて「マイルス・デイビス・クインテットのメンバーでもあったサム・リヴァースと共演したCD…。卓越した朗読とは、発語の前に深い沈黙があることを教えてくれるものであった」と書き、和合亮一の朗読に触れて「近代以降の詩は、朗読するとき「私」という主体から始まるモノローグ的な性格を持つ。それに対して和合亮一は、これまでなかったダイアローグ的な演劇的朗読を創始した」。(p.78)
細見和之は、「声を届けるということ 詩と歌のはざまで」で、「最近、瀬崎圭二さんの『関西フォークとその時代 声の対抗文化と現代詩』(青弓社、二〇二三年)をとても興味深く読んだ。ボブ・ディランの翻訳者としても知られる片桐ユズルさんを軸に、岡林信康、高田渡、友部正人さんらを中心に、一九七〇年前後の「関西フォーク」の流れを問い直したものだ。」(p.80)そして、「ギンズバーグの朗読で忘れられないものに、ポール・マッカートニーのギターに合わせての朗読がある。…あのポール・マッカートニーがギンズバーグを敬愛していることが、その言葉や身ぶりのはしばしからよくうかがえたのだ」。(p.81)
この細見氏は、高校時代にバンドを組んでいたとのことで、「十二年前から、私は自分自身の詩に曲を付けはじめた。…高校の同級生がお互い五十歳になったところで、バンドを再結成する話になって、高校時代のようなコピーバンドではなくオリジナルを演奏したい、と私は強く思ったのだ」(p.81)と。私と似たような流れではある。
【現代詩朗読年表】(p.127~131)
現代詩朗読年表として、1955年、ギンズバーグ、スナイダーなどビート詩人の、サンフランシスコ・シックス・ギャラリーでの朗読会、翌年の書肆ユリイカ、詩学社主催の「シャンソンと朗読の夕」からはじまって、2019年まで、5ページにわたって詳細な記録がまとめられている。労作である。
【竹内英典、消える声】
宮城県詩人会の先輩竹内英典氏が、詩「声が」(p.147)を寄せている。
「ないものを書いた と
声を聞いたが
一語残らず跡かたもなく
声も消えたのだ
と
砂をこぼした」(第4連)
宮城県詩人会においても、定例のポエトリーカフェで自作の詩の朗読は行っている。竹内氏は、いつも、穏やかな優しい声で語られる。読み終えた途端に言葉は雲霧のように消え、記憶にのみ残りつづけるかのように。
私が書く詩には、朗読するときのリズムが内在しているような気がする。朗読が前提になっている、というか。さらに、書く詩と歌う詞はまったく別物として書いてきたが、これも、最近は、ひとつの流れの中にあるものとも思えてきた。そのあたりのことは、また、稿を改めて。
【ルー・リード、ヴェルベット・アンダーグラウンド】
※昨日、これを書いている間から、久しぶりに、手持ちの、ルー・リードとヴェルヴェト・アンダーグラウンドのアルバムを続けて聴いている・
小さい編成でシンプルで粗野と言ってもいい音楽だが、一筋縄ではいかない屈折した品格がある。無駄なものをそぎ落とした単純で、しかし、複雑な美しさ。
歌っているというよりは語っている曲が多い。演奏付きの朗読に近い、というべきか。
私の目指す音楽は、このあたりだった、かもしれない。実は、時折、私自身の声、歌と聞きまがうところがある。いつか、聞き比べる機会を提供したい。
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