秋亜綺羅発行人、佐々木貴子編集人による月刊詩誌第2号。
今号の巻頭歌も、創刊号に引き続き、鈴木そよかという若い歌人の作品。
「寂しさの勢いで焼くキャロットケーキに合わせる音楽がない」
なるほど。
面白い。
私も、今日は休みで、朝から音楽を聴いていた。それが何か、と書き始めると、ここでの話題からはみ出てずれて行ってしまう。
歌人は、ふだん、どんな音楽を聴いているのだろう?
寂しいときに焼いたケーキには、寂しい音楽が似合うのだろうか?それとも「勢い」に任せて、大音量の音楽が似合うのだろうか?感情は、怒りにまで届いているのだろうか?それとも明るく励ましてくれる音楽だろうか?
しかし、どれもなんだかしっくり来ない。
しっくり来ない感じ。
しっくり来ない感じ、が大切なのかもしれない。
ひょっとすると、これは若さ、なのだろうか?
これから生きて、こういう場面にしっくりくる音楽を見つけていくのだろうか?
いずれ、読む者は、ここで縦横に想像を膨らますことができる。その想像の余地がいい、のかもしれない。
ちなみに、そうだな、私なら、昨日たまたま引っ張り出したイギリスのロックバンド、ハンブル・パイのライブアルバム「パフォーマンス~ロッキン・ザ・フィルモア」を挙げておこうか。私が高校生の頃のパワフルなブリティッシュ・ロックである。「勢い」に乗って、ということになるか。どこかに一抹の哀しさもありそうである。
目次の次の招待詩は、城戸朱里氏と秋吉久美子氏。秋吉久美子は、あの秋吉久美子なので、「氏」などと付け加えるのはむしろ恐れ多く失礼なことで、敬して高く遠い花として、秋吉久美子と呼ばうべきだろう。
城戸朱里氏は「長い夜」というタイトルの作品。
いや、困ったな。
実は、この5月号を読み通して、全体に不思議なパワーが満ちていると感じた。「現代詩の閉じられた世界」を突き抜けて行くような若々しい力。古臭くて干からびた世界と思っていたところに、秘められていたみずみずしい力、世の中のあちらこちらに閉じ込められて孤立していた迷宮、甘い花の蜜を実らせていた秘密の花園が、実は隠されていた、というように。
それらが、秋亜綺羅の「月刊ココア共和国」を創刊によって、解放された。堰き止められていた豊かな水量が、流れるべき水路を見出して溢れ出た。豊潤な世界が顕在化した。などと書こうと思っていた。
そこで、あの城戸朱里氏の詩すら、決して世の大衆に迎合するという意味でなく、品格を保ったうえで意味をたどりやすい詩を提供した、と書くつもりでいた。
いや、実際に「長い夜」は意味不明ではない。哲学や精神分析や言語学を少々学んだものならば、納得しやすい事象が描かれている。
「 識字障害(ディスレクシア)をもたらすほどの青空
文字が意味を結ばなくなると
世界は際限のない差異として現れ
自他の区分も消滅するから
緑なす森を前にすると樹になり
行方の知れない道を歩いていると道になる」(12ページ)
識字障害とは、ひとが文字を見ても文字と認識できない状態にある、脳の働きの障害の一種。あるいは、文字であることは分かっても、それが何を意味するのか認識できない学習障害。(厳密なことはものの本なりに当たって確認するべきだが、ここでは、まあ、おおざっぱにそんなことだと。)そういう障害をもたらすほどの青空、ってどういう青空だ?ということになるが、ここは、雲ひとつなくカンカンと陽の照る真昼間は、白い紙のうえの文字が読み取れないほどまぶしいということの比喩的表現ととらえればよい。暗喩である。ただし、ここで注意が必要なのは、作者がまぶしいと言いたかったわけではなくて、識字障害と言いたかったから識字障害と言ったわけで、表層上の表現としては比喩のための材料でしかない「識字障害」の方が実は表現したいものであって、「青空」のほうが比喩なのだ、という逆転が、詩の場合はよくある、ということだ。比喩するものと比喩されるものが逆転しているとか、あるいは等価だ、というようなことがある。
さて、まぶしくて見えないのであれ、脳の働きの障害として読み取れないのであれ、文字が言葉として認識されないと意味を結ぶことはないことになる。
実は、人間が世界を認識するとは、言葉によって分節化することと同じことである。言葉なしには人間は世界を認識することができない。文字が意味を結ばなければ、分節化は行われず、世界は認識されえないことになる。何かのっぺりとした混沌、全く違いのつかめない融合。
3行目で、世界が際限のない差異と言われていることは、全く差異のつかめない融合と同じことである。均質のものが続いているわけではないと気付いたとしても、どこに切れ目を入れて、ひとつの物、ひとつの塊として認識できるか、その切れ目の入れ方がつかめないということである。
例えば、いま、私の目の前に食器戸棚があって、その中に皿やコーヒーカップその他の食器、人形などが入っている。上には時計があり、わきの棚にはコーヒーミルや電子レンジがある。この描写は、全くその通りで、分かりづらいところは一つもないと思われる。しかし、それは、私たちがすでに言葉のある世界に住まっているからなのである。
食器棚とか、皿とか、コーヒーカップとかは、物であるが、それがそういう物であるのは、人間が言葉で名指すからである。世界は言葉によって分節化されることによって、はじめて私たちに認識されるのである。
待てよ。この議論は、このあたりで止めておこう。小難しい、論理の道筋を辿っていくのがメンドくさい類の哲学の話だ。厳密なことを言おうとすると、際限なく細部まで条件を付けて検証する作業を続けなければならない。学校で習った数学の証明のように。
いずれ、際限のない差異とは、融合であって、私と私以外の物との区別もなくなるから、緑なす森の前で私が樹になる、などということも言えてしまうわけである。
というようなわけで、この城戸氏の詩は、私にとっては分かりやすい、分かるというだけでなくて、きちんと筋道の通った表現というふうに読めるわけである。理解し得る作品である。
いや、やっぱり分かりにくいか。一般的には、分かりにくいことか。哲学的なことを引き合いに出されても分かりやすくはならないか。しかし、私は分かった、と思える。
私は分かった、と思えるので、このまま引き続き、この詩の一行一行に、こんな解説を加えていきたい誘惑にも駆られるが、止めておく。
ただ、城戸氏のこの詩を分かると思ったことを少し検証してみたいと思って、『現代詩手帖』の今年の1月号特集『現代日本詩集2020』の城戸氏の詩に当たってみた。『ココア共和国』の世界の中にあることによって、城戸氏が化学変化を起こして分かりやすく書いたのかもしれない、と仮説を立ててみた。
「国境」という詩である。
参ったな。分かる。分かるし面白く読めてしまう。仮説は引っ込めざるを得ない。ここでは、長くなるので、引用は差し控えておく。
横道になるが、現代詩手帖の当該特集の冒頭は、谷川俊太郎「言葉を覚えたせいで」。これは言葉についての詩である。さすが谷川俊太郎。分かる、面白い。谷川俊太郎の詩は、いつでも分かるし、いつでも面白い、ふむふむ、全くその通りと思わせられる。
「言葉を覚えたせいで、言葉では捕まえるのが不可能なものをどうしたら良いのかわからない。」(現代詩手帖1月号10ページ)
とはじまる。
次ページの第2連は
「 広々とした青空のどこかから
白い雲のひと刷毛が現れて
風に流れるいとまもなく
すぐ消え失せるのを赤ん坊が見ている」
いい詩だと思う。
おや、城戸氏の詩と同じようなことを描いた詩だな。
『ココア共和国』掲載の「長い夜」の最終連は、
「無欠の青空のもと、今日も海は揺らいでいる」
という一行である。
谷川俊太郎は置いておいて、全般的に現代詩手帖は読めない、読みづらい、毎月読み通すなどとんでもない、という前提で、それとの対比で『ココア共和国』のことを書こうと目論んだが、それはうまくいかないようだ。
他の高名な詩人たちの作品も並んでいて、読みこんでみたいとも思うが、それもここでは止めておく。
ちなみにちょうど5月号が、年間の投稿作品の優秀者に贈る『現代詩手帖賞』の発表で、そちらの投稿作品と、こちらの投稿作品の読み比べも面白いだろうが、また、のちの機会とする。
『ココア共和国』の投稿作品の冒頭は、うざとなおこ「空の理想」である。
「 空想を鞄に入れて歩くと
踵に羽根が生えてくる
空虚をポケットに詰めると
俯き加減な空洞の影
空という字は不思議
クウにもカラにもソラにもなって」(24ページ 3連まで)
ここにも空があった。
同じような着想で、絵本作家・翻訳家としても知られる詩人・石津ちひろさんに、詩集『あしたのあたしはあたらしいあたし』(理論社 絵は大橋歩)所収の「そらのコップ」という優れた詩がある。これは、お勧め。私のブログで紹介している。
というようなことで、『月刊ココア共和国』は、詩の世界の新しい形のメディアとして、新しい可能性を開いていくメディアとして、新しいエネルギーに満ちて賑々しく出発した、ということは言っておきたいところである。
※詩のブログ湾
石津ちひろ 詩集『あしたのあたしはあたらしいあたし』
https://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/74a9da3143da409f6a11342336a2bc1f
※付録
実は、鈴木そよか氏の巻頭歌、最初にページを開いていた時には、ちゃんと読み取っていたのだが、なぜか、この紹介を書き出すときに、読み誤っていた。
「音楽」を「言葉」と。
「音楽がない」という末尾、「言葉がない」と勘違いしていた。たぶん、城戸氏や、谷川俊太郎の引用した詩に引きずられて、この文章の行論に都合がいいとでも思いこんだのかもしれない。
余計な文章ではあるが、残しておきたい。
〈以下訂正前〉
面白い。この面白さはなんだろう?
「言葉がない」というのは、何かの程度が甚だしくて、適切に表現しうる言葉が見つからないというときに使う。何か、というのは、ふつう感情的なことである。どんな言葉を持ってきてもぴったりと言い切った感じがしない。気が収まらない。マイナスの感情である場合もあるし、プラスの感情の場合もある。
悲惨さの程度が甚だしくて言葉がない、とか、幸せすぎて言葉では言い表せないとか。
であるとすると、この歌の場合、恋人にふられたのか、友達が忙しくて会ってくれないのかわからないが、寂しさの程度が甚だしい、つまり、とても寂しいのだ、と言いたいと読める。
いっぽうで、ひょっとすると、作者はケーキを焼く作業に夢中になって、寂しかったはずなのが、紛れたというか、むしろ楽しくなってしまったのかもしれない。焼き方に工夫を凝らしてしまうまで集中して楽しんでしまったのかもしれない。それで、あれ、寂しくないぞ、と感情を見失って、つまり、表現すべき言葉を見失ったのかもしれない。
そのどちらなのかは、この言葉だけでは判別のしようがない。ただ、言葉に工夫を凝らしていくレトリック、文彩の面白さは伝わってくる。
感情が深まっていく縦方向への広がり、または、違う感情へ移り変わっていく横方向への広がり。上下左右何処へでも拡がっていける自由さがある。360度の解釈可能性に開かれている、というべきか。
〈以上、付録〉
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