ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

東浩紀 セカイからもっと近くに 東京創元社

2014-05-05 10:57:20 | エッセイ

  副題は、現実から切り離された文学の諸問題。

 「セカイ系」という言葉で合点するひとびとがいるらしいが、その「セカイ系」の文学についての評論。帯には、「著者最初にして最後の、まったく新しい文芸評論」、「ライトノベル・ミステリ・アニメ・SF」、「虚構と現実の再縫合」とある。

 東浩紀は、処女作「存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて」から、「動物化するポストモダン」、「一般意志2.0」、「思想地図」のシリーズ、「思想地図β」のシリーズ(「チェルノブイリ・ダークツーリズム」や「福島原発観光地化計画」を含む)、最近は小説「クリュセの魚」まで読んでしまったので、愛読者のひとりと数えていただくことも可能ではないかと思う。

 しかし、思想地図βのシリーズは、45歳以上の読者は相手にされていないようなので、愛読者の列に加えていただくことは遠慮せざるをないのかと思う。いや、単純に文字が小さいし、あわせて淡い色彩を使っていたりするということなのだが。老眼鏡をかけていても読みづらい。本文はまだしも、注記の部分が。(ひょっとすると、最近のお洒落な雑誌はすべからくそうなのかもしれない。)

 私は、中高生の頃、30歳過ぎたやつらは信用するな、と、ニュー・ミュージック・マガジンなどで、尊敬するロック・ミュージシャンから(日本の評論家経由で)叩きこまれて育った世代なので、東氏に、50代以上は相手にしないとか言われても、ははあ、ご無理ごもっとも、と簡単に受け入れてしまったりするわけだ。(いや、東氏は相手にしないと明言しているわけではない。)(ところで、NMM(その後Nがとれてミュージック・マガジン)編集長の中村とうよう氏は、当時から30歳は超えていたように思う。)

 閑話休題。

 さて、この本は、ライトノベル・新井素子、ミステリ・法月倫太郎、アニメ・押井守、SF・小松左京の4名を取り上げ、評論している。

 「本書は、ひとことで言えば、想像力と現実が関係をもつことのむずかしさを主題とした本です。/ここで、想像力を代表するのは文学です。文学はかつて、現実で生きる人々の喜びや苦しみを汲み取り、芸術表現に昇華するという使命を担っていました。つまり、想像力と現実はしっかり関係をもっていました。」(2ページ はじめに)

 しかし、今はそうではないのだと。

 「ぼくたちはどうやら、想像力と現実、虚構と現実、文学と社会が切り離された時代に生きています。文学が社会に与える影響はかつてなく小さく、逆に社会が文学に与える影響もかつてなく小さい。」(4ページ)

 東はその状況を良しとするのか、良しとはしないのか?

 「想像力と現実が結びつかないのであれば、本来は文芸評論は成立しません。けれどもぼくはここで、想像力と現実が結びつかない、その現実をこそ想像力の分析を通して浮かび上がらせようとしています。ひとことで言えば、本書は、文芸評論の不可能性について文芸評論の手法で論じようとしている、かなりねじまがった本でもあるのです。」(6ページ)

 なるほど、ねじまがった本。

 ということで、かなりアクロバティックで、スリリングな本、ということになるわけです。

 ぼくは、実は、ここで取り上げられている4人の作品はほとんど読んだことも観たこともない。

 新井素子は、デビューのころから、何とかの賞を取ったとか、もちろん名前と顔は知っていたし、小松左京は、もちろん、SFの大家で名前は知っている。「日本沈没」は、ベストセラーであるだけでなく、巨大な社会現象ですらあった。しかし、実際に読んではいない。押井守も、よく観ていない。まんがの「うる星やつら」は少年サンデーで見ていたけど、アニメはほとんど観た記憶がない。ちょうど大学生から東京で就職したころの、いちばんテレビを見ていない時代にぶつかるのだと思う。法月倫太郎は、ほとんど知らない。

 しかし、「うる星やつら」は、ぼくの記憶では、アパートの管理人の若い女性(管理人のおばさん、ではなく、結構きれいなおねえさんであったのが印象的だった)が、高校生だか大学生だかの主人公に対する一方のヒロインだったような気がする、宇宙人の常に毛皮のビキニ姿の「ラム」は、脇役という印象なのだが、どうも違ったらしい。そう思い込んだのは、当時のぼく自身の好みということなのだろうと思う。

 さて、この本に、現代思想に大きな影響を与えているフランス精神分析の巨匠、ラカンの「想像界、象徴界、現実界」について、書いているところがある。ここは、もちろん、東浩紀の専門分野である。しかし、ざっと分かりやすく説明してくれている。

 「小さな日常と世界の破滅が短絡し、社会的な中間項の描写を欠く-そんなセカイ系を特徴づける構図が、新井の小説にはすでにはっきりと見て取れるからです。この構図は、現代思想の世界でよく使われるラカン派精神分析の用語を借りれば、『想像界と現実界が短絡し、象徴界の描写を欠く』という表現で定式化できます。ちょっとややこしい言いかたですが、この表現は慣れると便利なので覚えておいてください。その三者は厳密には定義がむずかしいのですが、ここでは『象徴界』とは社会の公共的な約束事や常識、『想像界』とは恋人や家族など親密圏内部での幻想の世界、『現実界』とはそういう常識も夢もともに壊すリアルなもの、ぐらいに押さえておけば大丈夫です。」(19ページ)

 「象徴界」は言葉だし、「想像界」は幻想だというだけでなくて、日常に人間が生きているなかで想うこと考えることすべてと言っていいのだろうし、「現実界」は、実はけして知りえず、見えないものだとか言う。一般常識的には、現実こそ、人間の目に見えるもので手にも触れられるものだと思うわけだが、ラカン派の「現実界」は、そうではないのだというわけで、分かりやすくない話ではある。一般人には想像を絶する世界のようでもある。でも、それは、よくよく説明を聞いてみれば、なるほど、と納得せざるを得ない話なのだが、それは、また、別にラカンの精神分析に関する新書版など読んでいただくべきところだ。

 ここに引用した東の説明は、簡単で分かりやすい、のではないだろうか、と思う。

 そうでもないか。

 そもそも、ラカンのその定式は、分かりやすいものではないので、分かりづらいとしても、東氏の説明能力の問題でないことは言うまでもない。

 ぼく自身が、ようやく、ここでの東氏の説明を聞いて、はあ、なるほど、と得心できたように思う、ということだな。

 さて、文学芸術の世界と現実の世界は切り結ぶのか?

 そんなの、切り結ぶわけがない。文学は、現実に対して無力だ。それは全くその通りである。

 でも、実は結構そうでもないんじゃないか、とか、思い始めている今日この頃であったりもする私である。文学は、現実に対して、巨大な影響力をもつものであると。

注;高橋留美子のまんが「うる星やつら」と、、やはり彼女の別のマンガ「めぞん一刻」を混同していたようだ。


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