ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

中沢新一、國分功一郎「哲学の自然」太田出版

2013-06-17 17:07:46 | エッセイ
 中沢新一は、「チベットのモーツァルト」以来読み続けている思想家。専門分野は、宗教学、文化人類学、そして、哲学というようなことになるだろうか。
 大学で教養学部哲学・思想コースなどと言って、専門がほとんどないような、4年間一般教養やって卒業したようなものだとつねづね言っている私にとって、もっともしっくりくる学者、著作家でありつづけている。こちらは、哲学、フランス文学、文化人類学、宗教学、言語学あたりをみな、若干かじったみたいないい加減なことで、しっくり来るなどと言うのは、失礼なことでもあるのだが。
 國分功一郎氏は、若い哲学者。高崎経済大学の準教授。先般は、「暇と退屈の倫理学」という刺激的な内容の本を読ませていただいた。「暇」とか「退屈」を扱った、大変「刺激的」な内容の本、ということ。哲学の分野で、相応に広く読まれる著作を著している気鋭の学知事はお者ということになるだろう。さきほど、ジル・ドゥールーズについての新しい本を予約したところだ。(ちょっといま、本棚を見たら、青土社からでた現代思想ガイドブックというシリーズのドゥールーズの巻をたまたま買っていて、國分氏の翻訳だった。)
 おや、國分氏は、氏をつけておきながら、中沢新一は敬称なしで呼び捨てだな。これは、やはり、若い頃から読ませていただいて、学者として確立し、一種、すでに歴史上の人物でもあるという、わたしの意識の表れ。國分氏は、74年生まれで、私より20歳近く(正確には18歳も)若い。ここは自ずから敬称付きとなる。
 このところ、ツイッター上で、國分氏からの情報も読ませていただくが、東京都下小平市の都市計画道路について、市民がモノを申す運動に取り組まれている。せっかく成立した直接投票の条例に、突然、小平市長が、投票率の要件(50%以上でなければ開票しないと)を付加したということで、結果、開票されなかったとのこと。これは、市長選の投票率自体が、20やら30%程度らしいから、その正統性の観点からもどうかと思うような条件なのだが、東京都の行政サイドのごり押しがまかり通るような事態らしい。
 ところで、この点で、猪瀬直樹都知事は、どう考えているのか、あまり、発言した様子は見えてこない。かれは、「ミカドの肖像」などで知られる作家、評論家であるが、そもそも政治の舞台に出てきたのは、高速道路などの建設省の既得権益みたいなことに著書でするどく切り込んで、政府の審議会の委員にもなってというところから始まっている。かれが、計画策定から数十年もほっておかれ、いま、また推進されている道路の計画について、何を考えているのかぜひ知りたいところである。言わば、道路の専門家、道路行政が既得権益の中でどう進められてきたのかについて批判した専門家であるかれが、この道路事業について、一家言ないはずはない。肯定的に評価するのか、なんらかの問題があったし、今でもあると批判的に評価するのか、どちらなのか。っていうか、都知事は、その名前で都の事業を推進する当事者なので、責任のない評論家めいた発言はするはずがないのは自明のことだが。
 さて、この「哲学の自然」は、ながく中沢新一を読み続けてきたものにとっては、まさしく、その文脈上に展開してきた素直な議論である。ここで語られていることは、まさしくその通りでしかない。しかし、現在の日本にいて、何か、そういう議論が素直に受け取られていないという印象を受ける。
 ありていにいえば、新自由主義的な、グローバルな、金融とか、成長とかが何にも増して優先されるような社会はよろしくないよね、ということ。
 私が本を読んでいる限りは、どんな識者もそのことを語っている。私は、素直にその議論に同意する。まさしく、まあ、通俗的に言えば「人間らしい社会」を保守していきたいと考えている。(実は、この「人間らしい」という言葉もいろいろ議論はあるところなのだが、それはさておき。というか、考えてみれば、この「哲学の自然」という本自体が、「人間」を超えた「自然」を考えようという本だった。)
 しかし、現在の日本は、グローバルな資本主義に飲みこまれているし、貿易立国だし、英語をしゃべることができなければ、生き延びていけないみたいだし、競争の中で勝ち抜いていかなければならないのだ、みたいなことが当然の前提だみたいなことになっている。個別の職場も、競争主義がはびこって、何かぎすぎすした雰囲気が蔓延しているようだ。
 そんなのは、私はまっぴらだ。
 柄谷行人も「哲学の起源」で、ギリシャ以前、というか最初期のイオニアの自然哲学、デモクラシー以前の「イソノミア(無支配)」に立ちかえっている。私の大好きな哲学者内田節が語る山村の共同体のこと、平川克美の「小商いのすすめ」、内田樹のもろもろの発言、中沢新一を含めて、みな、基本的には同じことを語っている、と私は思う。
 この本でも、マルクスの「商品-貨幣-商品」という交換が、「貨幣―商品―貨幣」にいつのまにか転倒する、それがさらに「貨幣-貨幣」という自己増殖が始まる、という話が出てくる。つまりは、世の中に必要なモノ(やサービス)が、円滑に供給されるための手段として「おかね」があったはずなのに、いつのまにか、「おかね」を増やすために商品を作るという話にすり変わる、そしてついにはヘッジファンドとか、金融工学とか言って、お金自体でお金を増やすことが蔓延するみたいなことになってしまう。
 柄谷行人も以前の本で同じことを語っている。
 ここで、すこし、身の回りのことを考えてみれば、地元の商人や職人、会社経営者も含めて、金儲けのための金儲けをしているひとがいったいどのくらいいるかということだ。
 地元の、あるいは少し広くこのくにのひとびとに、美味しい魚を食べさせたい。美味しい酒を飲ませたい。美味しいコーヒーを飲ませたい。美味しいラーメンを食べさせたい。きれいな着物を着せたい。美しく丈夫で長持ちする着物を提供したい。安全で、燃費の良い、居住性の高い漁船を作りたい。手間がかからず、美しく、安全で安心な加工のできる水産加工機械を開発し、提供したい。住み心地のいい、リーズナブルな価格の住宅を供給したい。などなど、自分の腕を、技術を、ノウハウを使って、世の中に必要なモノを提供したいというのが、おおかたの人間の考えていることではないだろうか。
 銀行や信金など金融業も、お金をそれ自体として増殖させたいというわけでなく、モノやサービスの流通を円滑に進めるなかで役割を果たしたいというのが素直なところなのではないか?
 おおかたのひとは、決して、金儲けのための金儲けをしようなどと考えていないのではないか?
 こうして、私が、好きなものを書いている行為も、基本的には同じことである。世の中の在りようを根本的なところで考え直してみるということが、それなりに世の中の役に立つに違いないと期待しているわけだ。
 ところで、この本の中で、中沢は、吉本隆明の「反・反核」の発言について触れている。そこでの中沢の読みは、私としてまったく同意できるものだ。
 「吉本隆明さんが…言いたかったのは…現実の問題は全部他人任せにしておいて、単に反対とだけ言っているようなやり方はよくないというのが、吉本さんの基本的な考えでしょう。…科学技術の発展はそれ自体が自然史的過程に属している以上、いったん開かれてしまった地平を閉ざすことはできない。だから、反核運動はこの自然史的過程に逆行して自然的秩序に回帰しようとする不可能な試みであるという点において、吉本さんから批判されることになるわけです。」(153~155ページ)
 まったく、その通りだと思う。そのうえで、中沢は「この吉本さんの思想を内側から乗り越えなくてはいけない」(156ページ)という。
 「吉本さんは、『原発というものを技術的に発展させていけば、いま抱えている放射性廃棄物の問題は解決される』とお考えでした。しかし、これは不可能だと思います。いまや原子力自体が古典的な技術になってしまっていて、これ以上の展開を望むことができません。」(156ページ)
 まったくその通り。
 ということで、この本も、また、とても重要な本であった。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿