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塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

選手を色眼鏡で見ないために

2012-02-15 23:16:53 | 日記
 先週の「アメ・トーク」は「きちんとしてなきゃいけない芸人」が題材でした。

 ゲストは麒麟の川島さん、ロザンの宇治原さん、オードリーの若林さんなどがゲスト
として招かれ、司会の雨上がりとトークを交わしたのですが、僕は話を聞きながら

 「わかるなあ。」

 という気持ちで一杯でした。

 僕はよく「真面目」だと言われますが、真面目というのは評価する言葉ではなく、
他に評価する言葉が無いから、「真面目」という言葉を当てはめているわけです。

 ゲストに招かれた芸人の皆さんは、多分ちょっとしたミスをしただけで周囲から

 「なんでこんなミスをするんだ!!」

 と、手厳しい避難を浴びる方達だと思います。

 そしてその後に登場した上島竜平さんあたりは、「まあ、仕方ないか。」

 と言われるているのかもしれません。

 サッカーの世界でも、ロナウドやテベス、バロッテリがミスをすると、彼らの自己顕示
欲や問題行動にうんざりしているのでしょう、多くの人間が厳しく糾弾します。

 一方カカのように、チャリティに関心を持ち悪質なファウルを犯さない選手は、ミスを
しても、それほど避難されないように思います。

 逆にその

 「品行方性」

 な選手、例えばライアン・ギグスですが、不祥事を起こした際の反動が凄いにも確かで
すが。

 僕は感情論は抜きにして、選手を色眼鏡で識別することなく、同じ態度で批判すべきだ
と思うのですがどうでしょうか?

 選手は名手だろうがそうでなかろうがミスをします。

 ならば適切な助言を与えた方が、選手のためになる気がするのです。

 記者もファンもニュース・キャスターもミスをします。

 選手だけが痛罵されるのは、それだけでアンフェアのように思えるのです。
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日本人選手が自分の判断を大切に出来ない理由

2012-02-15 23:08:05 | 日記
 中田英寿と本田圭介は、海外で暮らして随分楽になったと感じたのでは無いでしょうか?

 来日した外国籍の指導者は、日本の安全性と伝統芸能の素晴らしさを賞賛し、同時に
その協調性の部分に疑問を抱いています。

 「どうして日本人は、自主的に行動しないのか?
  自分の判断で結論を出さないのか?」

 と僕たちに問い掛けます。

 答えは簡単で「叱られるだけ」だからです。

 確かにサッカーと学校、職場の環境を混同してはいけませんが、でもどこも似たり
よったりなのではないでしょうか?

 「どうして俺の判断を仰がなかった?」

 と上司から言及されたら答える術を失ってしまいますし、確かに責任の所在を明確に
することは大切です。

 日本の場合、恐らく自分の判断で物事を進めることが困難なのは、その協調性の部分
よりも、自主的に行動して評価が得られないからだと思います。

 進捗状況の説明は不可欠ですが、学校と職場で自分がしたことを報告して叱られる機会
が多ければ、サッカーの世界でいかに指揮官が

 「笛を吹いても」

 選手は踊らないと思います。

 冒頭に挙げた2選手は、日本にいるときから目立つ存在でしたが、海外だと叱りとばす
前に、その背景を「冷静」、つまり感情論ではなく聞く環境があるように感じます。

 海外に出た時、恐らく彼らは

 「対等に議論できる世界を見つけた!」

 と大きな喜びを感じたのでは無いでしょうか。
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世界はゾーンプレスの手の中に

2012-02-15 01:28:11 | 日記
 ゾーン・プレスはピッチから「ゆとり」を消しました。

 つまりボールを保持できる時間が無くなり、狭い範囲に選手が押し込められる形になり
ました。

 勿論相手ゴール前までの距離が短くなったことで得点の機会が増え、オフサイド・トラッ
プに代表される守備戦術に発展に一役買ったことを忘れてはいけません。

 ソーシャル・ネットワークも同様に、僕たちの生活を劇的に変えました。

 例えば僕がこのブログで皆さんに意見を伝えられる事は、僕にとってとても有意義な物
ですし、ありがたい限りです。

 ただこうした

 「ネットワークの発達」

 が、僕たちの生活からゆとりを奪っていることも確かだと思います。

 何かしら人々があくせく動いているのは、主役が自分たちではなく機械に移りつつあ
る証拠かもしれません。

 ゾーン・プレスはサッカーにおいて攻撃と守備を分業せず、同時に行う

 「利便性」

 を生み出しましたが、同様の出来事が現代社会でも見受けられます。

 昔ながらの鉄道旅行のファンは、より速度と快適さを求めた今の列車よりも、ゆっくりと
車内でお弁当を食べながら、景色と会話を楽しむかつての姿が懐かしいと感じているのでは
無いでしょうか?

 サッカーは今後より正確性とスピードが求められる時代の突入するでしょう。

 その際今僕が挙げた「ゆとり」は、完全に姿を消していることでしょうね。
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世の中はゾーン・プレスで溢れている

2012-02-15 01:20:25 | 日記
 インターネットが普及、拡大を見せ始めた1990年代中期から、

 「地球は狭くなった」

 と語られ始めました。

 当然物理的な距離は変わらないのですが、人と人との「距離」が格段に縮小したのは
間違いなく、近年は追い討ちをかけるように、様々な

 「ソーシャル・ネットワーク」

 が誕生しています。

 僕は今の世界、サッカーの言葉を用いるならば

 「世界はゾーン・プレスの中にある」

 と答えます。

 つまりソーシャル・ネットワークという情報網の中で、僕たちは以前よりも確実に密集
された形で生きていると思います。

 実際サッキが手がけたこの戦術は中盤から閃きが消え、多くの背番号10が苦しむ形に
なりました。

 ゾーン・プレスにしてもソーシャル・メディアにしても、発想そのものは大変閃きに溢れて
いるにも関わらず、どこか窮屈な思いをしている人間がいるのが共通項です。

 例えば映画俳優がそうですし、サッカー選手もそうですね。

 ゾーン・プレスは現在のサッカーの潮流を生み出す根本ですし、ソーシャル・ネットワーク
も今後更に利用者が増えるでしょう。

 その半面、何かしらの「反動」が出た際の治療薬を、今から考えておかねばなりません。
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