塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

選手が移籍する際、注意すべき事

2015-08-24 01:14:37 | 日記
 選手の移籍が当然の現代、かつて味方として戦ったスタジアムに、敵として現れる瞬間はどんな気持ちでしょうか。

 見慣れたドレッシング・ルームとは反対の方向に向かい、かつて声援を送ったファンからの冷たい視線と、逆に数少ないファンが自分を鼓舞する現実。

 例えばカリアリの英雄であるジジ・リーバのように、スモール・クラブで優勝を味わう事が極端に少ない現代だからこそ、移籍が数多く成立するとも言えます。

 すべての選手が罵声を浴びるわけではありません。

 例えばラヒム。スターリングがアンフィールドで今季味わうであろう光景は、既に本人も自覚しているでしょう。

 2000年、ルイス・フィーゴが白のジャージを纏い、ノウカンプに現れた瞬間の憎しみは、仮に彼がここで殺されても、その殺人犯は許されるのではないか、そう思えるほど殺伐したもので、敵愾心という言葉では納まりませんでした。

 一方でアーセナルからバルサに移籍したアンリのように、帰還した際、多くの拍手で迎えられた事例もあります。

 もし、LAギャラクシーがリバプールと対戦する際、その場所がアンフィールドならば、ジェラードにもアンリと同様の光景が待っているでしょうね。

 それは日本式に言えば

 「立つ鳥跡を濁さず」

 という格言があてはまります。

 給料と契約内容で揉めたわけでは無い
 別れの際、きちんとファン、スタッフに礼をつくした
 そしてファンも、選手の気持ちを尊重した。

 これらの要素が歩かないかで、移籍が殺伐したものか、否かが決まってくると思います。

 フィーゴへの罵倒は、まさに常軌を逸していましたが、今後、日本でもあのような風景が日常になる時がくるのでしょうか。
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世論を割る選手の存在

2015-08-24 01:06:03 | 日記
 サッカーでは世論を割る選手が現れます。

 イタリアではバッジョがそうでしたね。

 韓日ワールドカップの際、バッジョを23名に選出するかどうかで、イタリアが大きく揺れた時期でしたが、反対派の多くは

 「トッティ、デルピエロにフィオーレと、バッジョを呼ぶ必要などない」
 「彼が94年、98年とワールドカップをフイにした事実を忘れない」

 という意見を掲げています。

 つまり

 94年大会のPK失敗
 98年大会、フランス戦でシュートを外す

 事が苦い記憶になっているわけです。

 しかし、94年決勝はバレージもPKを外し、98年大会ではバッジョはレギュラーではありませんでした。

 また、94年大会はナイジェリア戦も含めて、彼の獅子奮迅の活躍があったからこそ、アズーリは決勝に進出できたという意見も健在でした。

 世論は時に、近視眼的に陥りやすいのかもしれません。

 一方で識者の多くは

 バッジョと言う選手の資質は万人が認めるべきもの
 今回は、指揮官トラップの戦術と、彼の持ち味がかみ合わないだろうから、選出は難しい

 と言う結論でした。

 イタリアは予選で軸となった3-4-1-2を本戦では4-4-2に変更するなど、直前で慌てふためいた事実がありますから、バッジョがいた際、もっと情報が錯綜したかもしれません。

 ただ、2010年のワールドカップで中村が味わった苦痛を考えるならば、出場の可能性を残すよりも、

 「君を本戦には連れて行かない」

 と23名発表の時に伝える方が、双方にとって良い結果なのかもしれません。
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