塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

時代に即した事柄を学ぶことについて

2016-10-16 00:14:37 | 日記
 実は昨日、長野市のホテルで高校の同期会、というものがありました。

 実際のところは当時の5分の1の人数しか集まらないにもかかわらず、僕は話しかけることもなく、そっと潜んでいたようなものですが。

 高校時代、何一つ特筆することがなかった僕ですが、ただ一人、僕に親切にしてくれた女性がおり、その女性と20年ぶりに再会したのですが、この会話も彼女から話しかけてくれたおかげで実現したのです。

 当時から僕は友人がいないうえに成績もよくありませんでしたから、今改めて話しかける題材がなかったのです。

 「ああ、デイジーに自然に振り向いてほしいと願うギャツビーの描写だな」

 と内心、グレイト・ギャツビーの主人公になったような気さえしましたが、それほそ小心者であることに、自分でもあきれるくらいでしたね。

 ですから、選手がパーティ会場で上手くふるまえるならば、それは本当に素晴らしいことなのですから、監督とフロントは評価すべきでしょう。

 男女の出会いで司会の方が

 「アピール・タイム」

 を設けますが、僕は自分に長所など無いと訝しがっている始末で、話が進みません。

 選手ならば代理人がスカウティング・レポートを作成しますが、僕たちは自分でセルフ・プロデュースをせねばなりませんから、引っ込み思案は面倒だ、とつくづく思います。

 ですから何となくですが、PKを辞退する選手の気持ちもわかる気がします。

 ただ、スマートフォンにしておいたことだけは正解だと思いました。

 僕は友人がいないので、皆さんにとっては必須であろう「フェイスブック」「ツイッター」「ライン」のいずれも未加入です。

 ラインは個人だけでなく、今では企業も行っているようですが、僕はそれすら行っていないくらいなのです。

 サッカーでもフェイスブックは多様されることが多いくらいですから、実生活も含めて時代に見合う道具はやはり大切といえることを痛感しています。
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監督に、パーティ慣れは必要か

2016-10-16 00:06:10 | 日記
 ベッカムが社交的かどうかは判別がつきにくいと思います。

 なぜかと言いますと、彼は多くのスポンサー行事に出席せねばなりませんが、彼は常に「輪の中心」にますから、相手にされない、気まずい思いをする、ことがまず無いためです。

 彼の天性ともいえるほほ笑みと服装のマナー、そして完璧ではない英語の発音が、ベッカムの佇まいを愛らしくしているといえます。

 一方でパーティやスポンサー行事とは無縁といえるのがマルセロ・ビエルサ、のように思います。

 ビルバオでもマルセイユでも、彼がスーツを着ていることは見たことがりませんし、後者ではアディダスが支給したトラックトップを着ている姿を見たことがあります。

 正直、スポンサーの受けは芳しくないでしょう。

 しかし、彼はそんなことは微塵にも感じないでしょうし、どうすればサッカーが上達するだろうか、この1点のみに神経が注がれています。

 シメオネにしてもグアルディオラにしてもビエルサを敬愛しているのは、真摯にサッカーに取り組む姿勢こそが監督の資質と感じているからではないでしょうか?

 ホルヘ・サンパオリもビエルサを敬愛し、以後のチリ代表を率いましたよね。

 一方で監督がパーティやクラブの行事でうまく振る舞うことも必要なのでしょう。

 今クラブは独自でテレビ番組を持ちますし、昔は30億円もあれば相当な名手が獲得できましたが、いまはそうも行きません。

 監督のマン・マネージメントの中に、戦術やフィットネスだけでなく

 選手を人間として尊重できるか
 スポンサーを前に上手くふるまえるか

 という要素も必要のように思います。

 僕のように人望がなく、パーティで話しかける人間からすれば、ベッカムは別次元の方です。
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