塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

南米型の実況が日本で不評な理由とは

2016-10-15 23:14:16 | 日記
 僕たちはテレビ中継を見て、選手の動き、監督の采配だけでなく、実況と解説にも合いの手を入れ、批評しますよね。

 でも、実況を担当する方の苦労は本人しかわかりませんが、選手名の把握から当日の芝の状態、風の方向、強さなど、中継席に座るまで調べものがたくさんある事は間違いありません。

 その実況、南米風の叫び声は日本では評判がよくありません。

 南米風に言えば

 ゴールを奪った選手名を絶叫する
 「ゴル・ゴル・ゴル」と幾度も繰り返す

 実況が特徴です。

 欧州では「ファンタスティック」「マンマ・ミーア」「オウ」など、同様に興奮したアナウンサーが我を忘れることがありますが、日本ではきっと中庸が求められるのでしょう。

 それは野球に起因しているように思います。

 日本テレビとジャイアンツ、そして読売新聞

 というように、マスメディアが球団をサポートして入れれば、必然的に実況や評価は甘口になります。

 タイガース以外の球団、日本シリーズであたるパ・リーグの王者これでは面白くないでしょうし

 「相手も尊重しろ」
 「甘い解説をするな」

 という意見もあったと思います。

 口うるさい、騒々しいという意見もあるでしょうが、日本でも日本ならではの実況を考えるときかもしれませんが、イラク戦の山口の得点のように、だれもが叫ぶゴールもあるものですが。

 
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今自分は一人である、という実感を感じる

2016-10-15 20:33:33 | 日記
 僕は本を読みます。
 
 僕は新聞を読みます。

 なぜ読むかといえば習慣である、という見方もあるのですが、単純に

 「自分がいま一人でいることを実感したいため」

 という観点もあります。

 サッカーも同様でバスに乗る、スタジアムに着いて空いている席を探す、座る、プログラムを見る、選手の練習内容を見ながら試合が始まるのを待つ。

 この間に誰かと話をすることはありません。

 それはひとりで観戦に来ていることもそうですが、僕は矛盾しているようですがサッカーの話を誰かとしたいと思う反面、ひとりでいるのが好きなんですね。

 一人でいれば少なくとも軋轢、不和をは無縁です。

 サッカーでは時に

 ファンと警備隊が真正面からぶつかる
 監督人事を巡ってファンが座り込みを行う

 という出来事が起こりますが、あれは集団で同様の考えを持つ人物がいるからこそできることで、もし行動を起こすのが自分だけならば、それらの行為には踏み切らないはずです。

 モームの代表作「月と6ペンス」において、ストリックランドは周囲の評判、悪評などを一切きにすることなく、自我を貫きます。

 僕もそれだけの肝っ玉があればよいのですが、実際はひとりでいることを好みながらも、他人の視線に恐怖を感じています。

 案外サッカーという競技を一人でみると、集団でみるよりも冷静な気分かもしれません。

 それは自分の感情を周囲に迎合する必要が無いためであり、自分の考えをまとめる時間があるためです。

 僕は今もどこかでコラムニストになりたいと思うことがありますが、それはコラムを書くという行為に関してだけは一人でいられるからですが、そこには出版社と編集者が存在します。

 でも、夢中になって意見をまとめているとき、そこに他人の視線を感じない落ち着きがあるものです、
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バルサ時代のグアルディオラの胸中を想像する

2016-10-15 20:14:08 | 日記
 ルキノ・ヴィスコンティ監督のヴェニスに死すは、トーマス・マンの原作をもとに製作されています。

 ドイツの老作曲家、アッシェンバッハが避暑で訪れたヴェニスにおいて、まるでギリシャ彫刻を思わせる美貌の少年、タージオ(映画の中ではタージュという発音が近いと遭遇します。

 芸術は芸術家が生み出すものなのか、それとも神によって生まれた瞬間に与えられたものなのか。

 老作曲家はその葛藤の中で、タージオから視線を逃すことができなくなります。

 僕はまだ半分程度しか見ていませんが、考えたことはグアルディオラの事でした。

 彼は戦術や概念を新しい形で生み出すことに関しては芸術家だと思います。

 もし、彼のバルセロナ就任が4年早く、ベルナベウのファンですら拍手を送った、最盛期のロナウジーニョを目前にしたならば、彼はこの生まれながらの天才をどう扱ったでしょうか。

 自分が描く戦術の連動制、機能美こそが美しい(アッシェンバッハの考え)
 神が才能のして先天的に与えた感性(タージオの存在)

 グアルディオラが監督就任した際、ロナウジーニョとデコは

 練習に遅刻し、集中力を欠いている
 カンテラからの昇格を軸に先発を決める

 という方針からすぐにトレードの対象となります。

 グアルディオラにとってロナウジーニョが全盛期でも、放出した可能性はあると思います。

 それは彼を軸に戦術を構成すると他の選手が疲弊するという側面がありますが、機能美という全体の動きは間違いなく失ってしまいますが、メッシはSの才能を個人主義と組織主義。

 この両方で活躍することができると判断したのでしょう。

 イブラヒモビッチとの不和は有名ですが、グアルディオラからすると彼もロナウジーニョと同様、重心が彼にかかってしまうと判断したのかもしれません。
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サッカージャージも、販売方法は曲がり角か

2016-10-15 00:58:54 | 日記
 体験型という言葉を軸に、現在の日本の消費が見えてくるといいます。

 従来の店頭へ出かけて衣類や電化製品を買うのではなく、その場で体験をする、自分の関心分野には投資を惜しまないという人間が増えている背景を、VRという言葉で新型のプレイステーションは確保している。

 そんな気がします。

 スポーツ・ブランドも商売の方法を変化させるときかもしれません。

 店舗でもインターネット通販でも

 旧作を割引価格で販売
 福袋での在庫一掃

 という光景はよく見られます。

 ナイキやプーマのようなビッグブランドから、マクロンやエレアのような通好みのブランドでも、値下げして商品を販売することは好ましくないはずです。
 
 値下げをすることは

 1・その商品の基本価値を落としている
 2・必要以上に無駄な仕入れをした
 3・そもそも商品自体に魅力が乏しい

 というマイナスの観点を覆うことです。

 昔、ナイキがスニーカーで、核店舗から商品のリクエストを受けて受注分だけを製造したフューチャー・システム、というものがあったと思いますが、今はどうでしょうか?

 ユニバーサル・スタジオのような体験型アトラクションは、体でも感覚でもその魅力を味わえることができます。

 今後はサッカー・ジャージ、スパイクを売る方法にも、新しい形を見出す必要がありそうです。
 
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