人間というのは残酷で、心象を塗り替える要素を怠っています。
その代表例は1994年米国ワールドカップでしょう。
決勝戦でイタリア代表はPK戦の末に敗れますが、多くの方は5人目として登場し外したロベルト・バッジョと、外した後空を見上げて空虚な姿をさらけ出すあの瞬間を覚えているはずです。
ここが残酷で明らかに私たちに「非」がある点です。
何故ならばイタリア代表は、バッジョの前既にフランコ・バレージが外して苦境に陥っているためです。
バッジョも外し、バレージも外す
最終キッカーであろうがなかろうが、外したことの責任は同等ではなかろうか
と僕は思うのです。
実は香川真司が2015年、オーストラリア開催のアジア杯、8強のUAE戦において6人目のキッカーとして外しています。
確かに左ポストに当たったシュートが跳ね返り、彼が膝を折り曲げる場面はテレビ朝日がアジア杯の放送を流す旅に「意図的」に使われてきましたが、自叙伝「心が震えるか否か」を読むまで僕も思い出せないでいたので、大きな大きな反省点なのですが。
実はこのPK、日本代表は本田圭佑が最初のキッカーとして登場するのですが、彼は外しておりこの時点で劣勢なんですよ。
でもバッジョ同様に最終キッカーが外した、香川が決めていれば、という「策」が講じられているわけです。
考えてみましょうよ。敗因はPKです。
90分で終わらせる必要があったのでは
イタリア代表がブラジル代表よりも休日が1日少なかったことは判明している
ならばゾーン・プレスをしない方がよかったのでは
日本代表に90分の中に指揮官ハヴィエル・アギーレが何か策は無かったんか
と考えることは山ほどありますよ。
1993年のアジア最終予選もそうで、イラク戦の同点ゴールばかりが当時は話題となりました。
しかしラモス瑠偉は
初戦のサウジ戦に勝つ、イランに負けないなど策は幾らでもあったよ
あの同点ゴールに話題が集まりすぎ
とくぎを制しましたよね。
僕たちも見方を考えてゆくべきでしょう。
その代表例は1994年米国ワールドカップでしょう。
決勝戦でイタリア代表はPK戦の末に敗れますが、多くの方は5人目として登場し外したロベルト・バッジョと、外した後空を見上げて空虚な姿をさらけ出すあの瞬間を覚えているはずです。
ここが残酷で明らかに私たちに「非」がある点です。
何故ならばイタリア代表は、バッジョの前既にフランコ・バレージが外して苦境に陥っているためです。
バッジョも外し、バレージも外す
最終キッカーであろうがなかろうが、外したことの責任は同等ではなかろうか
と僕は思うのです。
実は香川真司が2015年、オーストラリア開催のアジア杯、8強のUAE戦において6人目のキッカーとして外しています。
確かに左ポストに当たったシュートが跳ね返り、彼が膝を折り曲げる場面はテレビ朝日がアジア杯の放送を流す旅に「意図的」に使われてきましたが、自叙伝「心が震えるか否か」を読むまで僕も思い出せないでいたので、大きな大きな反省点なのですが。
実はこのPK、日本代表は本田圭佑が最初のキッカーとして登場するのですが、彼は外しておりこの時点で劣勢なんですよ。
でもバッジョ同様に最終キッカーが外した、香川が決めていれば、という「策」が講じられているわけです。
考えてみましょうよ。敗因はPKです。
90分で終わらせる必要があったのでは
イタリア代表がブラジル代表よりも休日が1日少なかったことは判明している
ならばゾーン・プレスをしない方がよかったのでは
日本代表に90分の中に指揮官ハヴィエル・アギーレが何か策は無かったんか
と考えることは山ほどありますよ。
1993年のアジア最終予選もそうで、イラク戦の同点ゴールばかりが当時は話題となりました。
しかしラモス瑠偉は
初戦のサウジ戦に勝つ、イランに負けないなど策は幾らでもあったよ
あの同点ゴールに話題が集まりすぎ
とくぎを制しましたよね。
僕たちも見方を考えてゆくべきでしょう。