塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

諸外国の冷たい視線は的外れだろうか

2018-03-01 00:54:10 | 日記
 日本代表がワールドカップ出場はおろか、プロリーグもないころサッカーを志す選手は、キングのように海外に出向くほかありませんでした。

 「日本人にサッカーができるのか」

 というのは、日本以外の至る地域で聞かれた言葉のようですが、では韓国や中国の方が同じ志を抱いてやってきた際も、同じように侮蔑的な言葉をぶつけられたのでしょうか。

 ブンデスリーガでは20世紀における最高のアジア人として表彰された、ボンクン・チャがフランクフルトでプレイしていたため様相は異なったかもしれません。

 でも、サッカーが盛んな今でも諸外国の人間にこう言いたいものですね。

 「おいイタリア、鉄道ひとつダイヤ通りに動かせないのに、よくワールドカップ90の開催に立候補したもんだな」
 「おいブラジル、サッカー観戦で人が死ぬような国によく住んでいられるな。治安という言葉、お前ら知ってんのか?」
 「おいフランス、他人の存在を顧みずに自分の自己主張だけがとりえのお前ら、航空会社の度重なるストライキがあるのに、よくワールドカップ98を開催したな」
 「おいアルゼンチン、貧困層の問題が解決できないのに、ワールドカップの優勝を目指すと宣言するのは、順序が違うだろ」

 これは推測にすぎませんが、戦後、日本企業が世界を席巻するような技術で何かしらの貢献を果たしたことは確かです。

 自動車会社にとってマツダのエンジン開発とトヨタ・プリウスはすさまじい衝撃だったでしょうし、チキンラーメンが保存食というが癒えんを生み、東芝は2002年ワールドカップでパスコンを提供した。

 識字率に問題が無く、水道水が安全なうえに治安も頗る良い。

 もし日本がサッカーで上昇気流を描くようになれば、自分たちが太刀打ちできる材料が減っていく。

 とでも感じたのでしょうか、と感じることはあります。

 Jリーグだって改善すべき点はありますが、少なくともイタリアのようにスタジアムの横にある売店で海賊品が売られることも、ブラジルようにいきなり便器が投げ込まれて死者が出るようなことはありませんよね。

 そう考えてみると諸外国の批判、真正面から受け入れなくても良いのではないかと思うのです。
 
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