mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

世界一わかりやすい「論語」の授業

2012年02月15日 | 本と雑誌

 今日5時頃、久しぶりにブログを書き始めたのですが、書いている途中で突然、電源が切れてしまい、それまでに入力した駄文が消えてしまいました。

 電源が切れた原因がわからずにいらいらしたのですが、パソコンが原因なのか、OCNさんのソフトに問題があるのか?わかりませんが、勝手に「ぷつん」と切れてしまうのは本当に困ったものです。

 今日は電源が切れたのですから、パソコンという機械に原因があるのではないかと考えて、ソニーの手引き書などを調べたのですが、どうも良くわかりません。節電のために、一定時間が過ぎると電源が切れたようになる状態(スリーブ?)になったのかな?とも思ったのですが、ウインドウズをもう一度立ち上げましたので、機械的な問題のようです。

 泣き言を言わずに、今日は何を書きたかったのか?久しぶりに本屋に行って本を3冊も買ってしまったと言いたかったのですが・・・

 どのような本かと言えば、自分の病気、糖尿病のことが書いてある本とキリスト教のことが良くわかる本(対談)、それと、「世界一わかりやすい「論語」の授業・・・著者、一条真也氏(PHP文庫)」です。

 糖尿病の本は、糖分がある食物を食べなければ直る、というまことに面白い内容です。簡単に言えば、植物性の食べ物は食べるな!というものですが、スポーツジムに置いてある食べ物の本に書いてあることに大きく反する話のようです。「脳の活動には炭水化物が不可欠」というような書き方があり、小生もそのように理解していましたが、炭水化物は人間にとって必須の栄養素ではないというのですから驚きです。

 キリスト教の本も、西洋文明、ひいては世界中を流れている宗教・文化を理解するには、大変、参考になるようで読むことが楽しみです。

 おっと、でも今日のレポートは糖尿病やキリスト教の本ではなく、論語の話でした。

 論語は、小生には憧れの言葉で、以前から勉強してみたいな!と思っていました。しまし、わかりやすい「これ!」といった本がなかったのです。

 その意味では、この本はわかりやすいのではないでしょうか。

 論語と言えば、小生が思い出す言葉は

 「学びて時にこれを習う、

 亦た説ばしからずや。

 朋あり、遠方より来たる、

 亦た楽しからずや。

 人知らずして愠みず

 亦た君子ならずや。」

 ですが、小生は恥ずかしながら、この意味をよく知りませんでした。

 この言葉をこの本では

 「学んだあと復習すれば、理解がますます深まり楽しい。

 また、何かを学んでいると、同じ道を歩む友人ができて、それもとても楽しい。

 もし、自分が学んでいことを他人が理解してくれなくても怒ってはいけない。人は人、自分は自分だ。」と説明しています。

 まぁ、「学問のすすめ」みたいなことだと思うのですが、小生などは勉強するのが楽しい!というのは仕事をするようになってからでしたね。

 仕事に限らず、何かに夢中になるというのは楽しいし、そのための勉強は苦労ではありませんね。

 でも、勉強で友ができる、という経験はなかったな!明日から図書館にでも行って好きな本を読んでみようかな?


うなぎと梅干しの食べ合わせは?

2011年08月15日 | 本と雑誌

 パソコンをいじっていましたら、地震がありました。すぐに3月11日の地震を思い出して「大丈夫かな?」と恐怖心にかられてしまいました。

 地震は毎日のようにあるのにどうしてそう感じたのか?といえば、3月11日も2階でパソコンをさわっていて、洗濯物を取り込みにいった時に揺れはじめたからです。そういえば、あの日も今日のようにかみさんが家にいなかったな!

 まぁ、なんでもなかったので「ほっと」胸をなで下ろしたのですが、テレビ報道などで近く大きな地震がある、などという情報もありましたので、その覚悟と準備が必要なのかもしれません。

 ところで、立秋が過ぎても、言葉だけでうだるような暑さが続いています。そんな中で、最近は食中毒があまり話題になりませんが、要注意だと思います。

 その食中毒と関係はないのかもしれませんが、小生は「ウナギと梅干しは一緒に食べてはいけない」などという「食べ合わせ」の言い伝えの真偽が気になっていました。

 そう書くとその答が見つかったのか?ということになりますが、ある本にその答が出ていました。

 その本は、「ここ10年で、これだけ変わった!最新医学常識99(池谷敏郎氏・祥伝社黄金文庫)」という本です。

 わざわざ食べ合わせの善し悪しを調べるためにこの本を買ったのではありません。健康と病気に関する医学などという難しい内容かな?と思いながらもページをパラパラと捲っていたら、意外と読みやすかったものですから買ってしまったのです。

 そして、家で内容を見ていましたら、「食べ合わせ」の話が出ていた、ということです。

 そんなことより「ウナギと梅干し」のことが気になる?

 これは、悪い食べ合わせではなくて、「むしろ好ましい食べ合わせ」だそうです。

 「ウナギはビタミンA、B1などを豊富に含む滋養強壮、疲労回復効果の高い食品です。また、梅干しに含まれるクエン酸は、胃酸の分泌をうながし食欲を増進するうえ、うなぎの脂の消化も助けます。」とその理由を述べています。

 そのほかの食品?夏の食品の定番であるスイカですが、よく「天ぷら」との食べ合わせがよくない、という話を聞きます。

 これも、迷信だそうです。熱い天ぷらと冷やしたスイカを一緒に摂れば、胃腸に大きな負担がかかると想像されますが、成分的にはまったく支障がありません、と述べています。

 でも、なかには本当に避けたほうがよい食べ合わせもある、と書いています。

 「キュウリとトマト」「レバーとミョウガ「豚肉と冷たいそば」「なすの漬け物と冷たいそば」「お酒とからし」だと書いていますが、本当でしょうか?

 特に「キュウリとトマト」などは信じられない話ですね。野菜サラダなどでよく食べているからです。トマトが豊富に含むビタミンCをキュウリのアスコルビナーゼという成分が破壊してしまうからだそうです。でも、アスコルビナーゼという成分は、加熱や酸、酢により失われるので、酢の入ったドレッシングやマヨネーズで和えれば大丈夫だそうです。

 トマトとキュウリを生で混ぜ合わせて食べたことがあったかな?

 今日はこの辺で失礼します。


<超訳>心から安らぐ仏教の言葉

2011年01月31日 | 本と雑誌

 先日、イオンモールの本屋さんに「何か良い本はないかな?」と思い、立ち読みをしていたのですが、中公新書のコーナーを見ていましたら「<超訳>心から安らぐ仏教の言葉」という本が目に飛び込んできました。

 最初の本論を見ましたら「天上天下唯我独尊」の訳として「自分はこの世にただ一人の存在」という言葉が載っていました。

 そして、その超訳を次のように述べています。

 「広大な宇宙に自分はただ一人しかいない。十月あまり、お腹の中で赤子を育てた母でさえ、誕生の瞬間から別の人格になる。自分が産み落としたわが子とさえ、同人格とはあり得ないのだ。

 世界に何十億人いても、自分というのはただ一人。どんな場合でも、自分の力で生きていくほかはない。

 自分の力を強め、高みに進んでいくことはできる。だが、その自覚も意欲もなければ、停滞するか急な坂を転がり落ちていく。

 高みにすすものも停滞するのも、すべては「自分」に因るのである。幸福な人生を歩むのか、苦しみの人生を歩いていくか。決めるのは自分自身。

 生きることは、自分を主役にした人生物語を書いていくことだ。」

 小生などは「なるほど!」と納得したのですが、以前、このブログで「天上天下唯我独尊」という言葉を紹介したことがありました。

 若いときに「天井天下を通して尊いのは我一人」などと馬鹿な理解の仕方をしていたことがあると申し上げ、そうではなく、この本のように「自分はこの世にただ一人の存在」であるから尊いのだと申し上げました。

 それにしても、この言葉のように仏教の開祖、仏陀の言葉は素晴らしいものがあるのですね。

 さて、この本のことですが、作者は本郷陽二さんという方で、佛教関係者ではないそうです。

 でも、光文社カッパブックス出版社の編集部を経て、編集企画プロダクションを設立されて、これまでに仏教関係の著作やプロデュースで活躍されたいるそうですから、仏教の造詣が深いのだと思います。

 本には目次の前にはじめの言葉がありますが、この本ではその「はじめに」が大変面白いと思いました。そして、論旨が明快で理解しやすいのが、とても良いところです。

 「はじめに」のどこが面白いのか?ですが、副題の「仏教が「楽に生きよ」と教えている」という言葉のように、何が言いたいのかがわかりやすく、内容も「なるほど」と同意したくなるのです。

 「いま、仏教に対する関心が静かな高まりを見せています。むしろ、しばらく沈黙していた日本人の精神性の本質が、日々生きるための心の支えとして力を発揮するようになったのではないでしょうか。

 その背景には。生きていくことの重さを受けとめきれない人が増えてきたという現実があるのでしょう。生きていくことは・・・・<中略>

 仏教は立身や栄達を求めるものではなく、あくまでも人間の生きる姿勢と心の安らぎを求めるものです。このことこそが、六世紀に伝来してから一貫して、仏教が日本人の心をとらえてきた最大の理由ではないでしょうか。

 山水草木のすべて、万物は大いなる仏の慈悲に生かされている・・・・これが仏教の根本です。経典に見られる言葉は厳しい響きを持ちながら、口にするだけでここrがホッと和んでくる温もりと慈悲に満ちています。しかも、その内容も解釈も、驚くほど自由で広がりがあるのです。仏教はつまるところ、そんなに苦しんだり悩んだりする必要はない、もっと自分の心に素直に、楽に生きていけばそれでいいのだよ、と教えているのに気づくはずです。

 本書では、とっつきにくいと感じられる仏教の言葉を「超訳」し、普段の暮らしのさまざまなシーンに役立てられるように置き換えてみました。「超訳」にふさわしく、思い切った解釈をしたものもありますが、仏教の言葉は、百人百葉の解釈があってもいいのではないでしょうか。また、それが許されるのが仏教の自由さだろうと思います。私は仏教者ではありませんが、・・・<後略>」

 というものですが、小生は、この「はじめに」の最後の方に出ている文章「・・・まるで漂う雲のように自在に、楽な気持ちで生きるヒントを見つけていただけたら・・」が気に入ってしまいました。

 

 


文芸春秋:英語より論語を

2010年12月17日 | 本と雑誌

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 以前、新聞かテレビなのかわかりませんが、日本の企業(ユニクロなど)が会社の会話はすべて英語にするという話を聞いたことがあり、「どえらい時代になったな!」と思い、また、それで「日本語という世界に冠たる美しい言葉と文化が滅びないのか?」と感じたことがあります。

 海外旅行好きの小生なども英会話が出来たら、「旅がどんなに楽しいだろうな!」と思うのですが、それは、コミニュケーションの道具としての英語の必要性を考えているからで、職場や家庭で「英会話」する必要性がどこにあるのかと考えていました。

 イエス、ノーをはっきり言わない日本語の曖昧さを指摘する方がいますが、それは海外の企業と取り引きするとか、旅行で会話する場合に気をつければよい話で、日本の言葉の素晴らしさ(もののあわれ、わびさび)を捨てて良いというものでないと思うのです。

 そんな中で、昨日、かみさんが読んでいる文芸春秋2011年1月を何気なく「パラパラ」とめくっていましたら、お茶の水女子大学の名誉教授の藤原正彦さん(父親は作家、新田次郎)と作家の宮城谷昌光さんの対談が目にとまりました。

 題して「英語より論語を・・・英語の公用語化で企業はつぶれる。日本人が依るべきは、中国の古典にあり」となっています。

 その中で「そもそも英語が得意な人ばかりを企業が採用する・・・価値観が偏って固まってしまいます。言葉というものは、話されている国の文化や価値観と切り離すことはできません。例えば、戦前の日本の陸軍は、中枢がドイツに留学していた人に偏っていた。そのことが、三国同盟を成立させるなど日本を破滅に追いやった一因と言われています。海軍の方は留学先が色々の国に分かれていたため、考えがリベラルで、英米を敵にすることになる三国同盟には強烈の反対しました。

 今マスコミにでているようなエコノミストは、アメリカ帰りばかりでしょう。いまや日本の経済はすっかりアメリカ的な価値観に支配され、まったくうまくいかなくなりました。」という藤原先生の言葉に刺激を受けてこの対談を全部読んでしまいました。

 小生は、「日本人の政治や企業経営の根本にあるものが何か」と考えたことがなかったのですが、その答を「論語」や「貞観政要」などといった中国思想にある、と言っているは驚きでした。

 そして、最後のお二人の言葉が印象的でした。

藤原 今の教育では、英語も中途半端、日本語も中途半端という根無し草のような無国籍人しか生まれてきませんね。恐ろしいことです。それでは世界の中で評価されるような人材はで出てません。今一度、日本人ならば日本語をしっかり身につけないと国が滅ぶと、警鐘を鳴らさなければならないと感じています。

宮城谷 まずやはり、藤原先生と私で英語を公用語にした会社を全力で応援しましょう(笑)。先駆者として立派にたおれてもらわなければなりません。

 そのあとは、中国の古典に回帰してほしい。子どもたちには漢文の素読もぜひやってもらいたいし、経営者たちには、一流になりたかったから、『貞観政要』を買ってきて読みなさい、といいたいですね。これを読まずに何かを成し遂げようとしても、基礎がなくてもがいているような人に思えて仕方がないですから。

 といってます。

 巻頭写真は、中国・雲南省の大理三塔にしました。

 


福沢諭吉:現代語訳「学問のすすめ」2

2010年11月28日 | 本と雑誌

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 福沢諭吉の「学問のすすめ」については、その現代語訳(筑摩書房)があることをお伝えし、初編の「学問には目的がある」のうち「1人権の平等と学問の意義」について9月23日のブログで紹介しました。

 あの有名な言葉「天は人の上に人を造らず、人にしたに人を造らず」を説明したところです。

 この続きの内容としては、「役に立つ学問とは何か」を説明して次のように述べています。

 「ここでいう学問というのは、ただ難しい漢字を知って、わかりにくい昔の文章を読み、また和歌を楽しみ、詩を作るといったような世の中での実用性のない学問を言っているのではない。たしかにこうしたものも人の心を楽しくさせ、便利なものではあるが、むかしから漢学者や国学者などの言うことは、それほどありがたがるほどのことではない。」

 といってます。ということは、日本の伝統文学を否定しているようですが、当時の日本には「普通の生活に役立つ実学」が大事だとは言いたかったのでしょう。

 実学というのは、「いろは四十七文字を習って、手紙の言葉や帳簿の付け方、そろばんの稽古や天秤の取り扱い方などをはじめとして、学ぶべきことは非常に多い。」といってますから私たちの世代では「読み書きそろばん」という言葉が頭によぎります。

 現代は「読み書きそろばん」の便利な道具として電卓や携帯、パソコンなどが登場し、また、文章の手書きも少なくなっていますが、国語や算数の基礎がなければ、こうした文明の利器も役に立たないのではないかと思います。

 その意味では福沢が言っていることは現代社会にも十分通じる真理ではないかと思います。

 もちろん、実学は「読み書きそろばん」ばかりではなく、「地理学とは、日本国中だけではなく、世界中の国々の風土の案内をしてくれるものだ。物理学というのは、この宇宙の全てのものの性質を見て、その働きを知る学問である。歴史学とは、年代記を詳しくしたもので世界の歴史のようすを研究するものだ。経済学というのは、個人や一つの家庭の家計から世の中全体の会計までを説明するものである。修身学とは、行動の仕方を学び、人との交わり方や世間での振るまうべき自然の「道理(倫理)」を述べたものである。」と説明しています。

 そして、大事なポイントは「こういった学問は、人間にとって当たり前の実学であり、身分の上下なく、みなが身につけるべきものである。」としている点です。

 なぜならば、「この心得があった上で、士農工商それぞれの自分の責務をつくしていくというのが大事だ。そのようにしてこそ、それぞれの家業を営んで、個人的に独立し、家も独立し、国家も独立することができるでだろう。」と考えているのです。

 わかりやすく言えば、国民全員が人間にとって当たり前の実学を勉強(学問のすすめ)しなさい、そうすれば、家も国家も独立することができる、といってるだと思います。

 福沢諭吉が生きていた時代とは、日本の社会も世界の情勢も大きく変わりましたが、今の日本は彼が考えていた「実学が溢れる国」になっているのでしょうか。

 巻頭写真?トルコのペルガモン遺跡です。