mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

パリ:セーヌ河岸

2010年03月31日 | 旅行記

 昨日に引き続きパリのセーヌ河岸をお伝えします。

 昨日は「華やかなシャンゼリゼ周辺」のうち、女王の散歩道といわれたシャンゼリゼ通りについてレポートしましたので、「世界遺産一度は行きたい100選」からの文章をお伝えします。

 『右手に建つ、1900年に行われたパリ万博の会場として建てられたアール・ヌーボーのグラン・パレとドーム屋根のプティ・バレを過ぎると、エジプトの象形文字が刻まれた高さ23㍍のオリベスクが中央に立つ壮麗なコンコルド広場に着く。』

 といっても、どこなのか分かりませんよね。凱旋門からシャンゼリゼ通りをコンコルド広場やルーブル博物館方面に歩いていった場合の話を説明しているようです。

 お前もシャンゼリゼ通りを楽しんだのか?、と皆さんに質問されそうですが、残念ながら「じっくり、ゆったり」とは歩いていないのです。今度は、休憩してコーヒーでも頂きながら、凱旋門から歩いてみたいものです。

 また、アール・ヌーボーのグラン・パレという建物も名前は聞いたことがあるのですが、セーヌ川に架かっているアレクサンドル3世橋の近くであるということも知りませんでした。なんという計画性のない旅なのでしょうか?自分の不甲斐なさに呆れてしまいます。

 さて、文章の続きにいきましょう!

 『(オベリスクは、)エジプトのルクソール神殿にあった2本のうちの1本が、贈られたものである。今は明るい雰囲気に満ちているが、フランス革命時には「大革命広場」と呼ばれ、国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットなど1300人以上がここで断頭台の露と消えた、血なまぐさい広場でもある。』

 そうですか!驚きですね。小生は、コンコルドという言葉の響きに何となく親しみを感じていたのですが、2回ほどお邪魔しているのに、そんな惨たらしい場所とは思いもしませんでした。

 どんなことがあろうと、自分が人の命を断つことだけはしたくないと思うのですが、フランス革命のような激しい嵐のような風潮の中では、そういう声はかき消されてしまうのでしょうね。

 次に、コンコルド広場から左折すると、マドレーヌ教会がありますが、我々は、ここも見学していませんでした。

 『左折すると突き当たりにギリシャ神殿風のコリント式列柱が並ぶマドレーヌ教会があり、石段からのコンコルド広場からブルボン宮(国民議会)にかけて大きく広がる眺めがいい。』

 となっています。ちょっと分かりにくい文章ですが、要は、教会の石段からの眺めがいい、ということですね。

 続いて、

 『元は王宮だったフランス式庭園、チェイルリー公園の噴水の池にはコンコルドのオベリスクが影を映し、正面遠くに凱旋門、反対側はルーブル、ノートルダムと並ぶ見事な眺めは世界中の近代都市計画に影響を与えた。19世紀のオスマン男爵によるパリ大改造の賜である。』

 という文章に続きますが、世界中の近代都市計画に影響を与えた見事な眺めは、どこから見た眺めなのでしょうか?

 コンコルド広場からの眺めではなく、「マドレーヌ教会」の石段からの眺めですね。

 続いて、ルーブルやロアン舘について次のように述べています。

 『ナポレオン遠征の勝利を記念したガーゼル凱旋門をくぐると、かってはルーブル宮殿であったルーブル美術館に着く。『モナリザ』や『ミロのヴィーナス』など代々国王のコレクションやナポレオンの戦利品など30万点を所蔵する世界最大級の美術館で、入口は中庭の透明なピラミッドだ。

 噴水に彩られるパリ市庁舎北のマレ地区は、王族や貴族が住んでいた17世紀のパリの面影を残す一角。中庭のレリーフ『アポロの馬』が見もののロアン舘や王妃マルゴが暮らしたサンス舘、パリ市歴史図書館のラモワニョン舘がある。』

 という文章で「華やかなシャンゼリゼ周辺」の説明を終わっています。

 それにしても、小生が知らないものが沢山ありました。次回は「中洲を経て対岸へ」からお伝えします。

 


世界遺産:パリのセーヌ河岸

2010年03月30日 | 旅行記

 昨日は小生の長く、拙い文章を読んでいただきました。

 五木寛之さんの「人間の覚悟」ですが、人生を考える上で大変、参考になる本だと思います。

 小生は今朝も、続きを読みました。次にどんなことが書いてあるのだろうか、と「ワクワク」しながら読み進んでいるところですが、小生が感動(覚悟)したところを皆さんにお伝えできれば、こんな幸せなことはないと考えています。

 ということで、人間の覚悟はしばらく休止して、今日は世界遺産のヨーロッパ編からお伝えします。

 前にフランスのモンサンミッシェルについてお伝えしたことがありますが、今日もフランスの世界遺産を紹介したいと思います。

 19991年に文化遺産として登録された「パリのセーヌ河岸」です。

 パリは、「約2000年の変遷を物語る建造物が建ち並ぶ華麗なる都」などと言われていますが、私たちがこの都を最初に訪れたのはいつだったでしょうか。

 パリの象徴といえば、エッヘル塔ですが、それよりもルーブル美術館の大きさと数々の絵に圧倒され、また、コンコルド広場の建造物、シャンゼリゼ通り、凱旋門などを次々と見せられて「うぁー」や「ほー」という言葉の連発でした。

 それから、モンサンミッシェルを見たいがためにJTBさんの「パリから行く小さな旅」に参加する形でパリを見たのがいつだったでしょうか。

         http://www.geocities.jp/sinainaruike/sub15-1.html

 その時には、ノートルダム寺院、サント・シャペル、コンシェルジュリー、そしてルーブルの対岸にあるオレセー美術館などを見たのです。

 もちろん、パリの夜景を楽しむべく「セーヌ川クルーズ」にも参加しました。

 このクルーズを企画した会社の名前が良いですね!最初が「バトームッシュ」で小さな旅の方が「パリジェンヌ」ですから。

 そういえば、2回目のパリジェンヌは、ブロンドの女性が歌をうたい、私たちの横のお客には若い美人女性ばかりの集団(クロアチア?)がいるなど女性が多かったように思います。

 話が横路にそれてしまいましたが、パリを代表する世界文化遺産「セーヌ川岸」は、繁栄の歴史を映し出す街並みとして、旅人を魅了し続けるところとなっています。

 「世界遺産一度は行きたい世界遺産100選」では、次のように書いています。

 『古くから商業と交通の要衝として栄えたパリ。政治や学問、芸術、文化、宗教などの中心となって一度も衰退することなく発展し続けてきた、世界でも稀な都市だ。セーヌ川沿いの歴史的建造物は約2000年のパリの変遷を物語るものであり、19世紀半ばから20世紀初めまでの近代的都市計画による街づくりが、各国の都市計画に大きな影響を与えた先駆性などが評価され、セーヌ川沿いの建築物が世界遺産に登録された。

 セーヌ川の中洲、サン・ルイ島に架かるシェリー橋からエッヘル塔前のイエナ橋までの5㎞余りの左岸と右岸に点在する宮殿、教会、邸宅、美術館、橋、塔、広場、公園と、その種類は多岐に渡る。』

 

 と紹介しています。そして、『スタートはやはり、凱旋門がいいだろう。わかりにくいが、コンコルド広場から凱旋門にかけては緩やかな上り坂になっていて、凱旋門から歩き出すと楽なのだ。凱旋門とセーヌ右岸の中心コンコルド広場を結ぶ1.9㎞のマロニエ、プラタナス並木の大通り、シャンゼリゼ通りを歩く。かっては、「女王の散歩道」と呼ばれた幅100㍍もあるパリのメインストリートで、歩道もゆったりとしている。右手に建つ、・・・』と続きますが、いかがですか、この文章を読んでパリの街並みが浮かんできませんか?

 ここの部分を表す的確な言葉は「華やかなシャンゼリゼ周辺」ということになり、まだまだ続きがありますので、引き続き皆さんに紹介したいのですが、時間がなくなってきました。

 今日はこの辺で失礼します。


玄米ご飯と人間の覚悟

2010年03月29日 | 本と雑誌

 今日は五木さんの本が気になって、「人間の覚悟」の第一章から第3章までを一気に読んでしまいました。

 朝餉の準備は、小生の楽しみのようになっていますが、今日は白いご飯がなくなってしまいましたので、かみさんが昨日水で洗っておいた玄米ご飯です。玄米に小豆を加えて玄米と同量プラス半カップの水を加えて圧力釜で炊きあげます。

 これで、3度目の玄米ご飯ですが、2度とも水が多すぎて柔らかくなりすぎて「イマイチだ」と感じていましたので、水の量を減らしたのです。

 

 そして、炊きあがりましたら、レシピにはないのですが、大さじ一杯の黒ゴマと小さじ一杯の塩を加えて煎ったものを軽く混ぜ合わせます。

 小豆の量ですか?玄米3合に対して半カップ弱といったところでしょうか。圧力釜のレシピには、玄米を一晩、水につけおくことになっていましたので、小生もそうしたのですが、小豆も一晩つけておきました。(レシピではつけておかない)もちろん、玄米と同じ水につけておきました。

 そんなことは、良いから味がどうだったかに関心があると思いますが、もう一言、炊飯時間が肝心です。レシピでは15分つなっているのですが、前2回とも「柔らかすぎて、また、焦げが出来てしまった」ものですから、今回は、火加減を弱くして、13分くらいで火を止めました。

 肝心な出来具合ですが、これでも「お焦げが出来、柔らかめ」でしたが、赤飯を食べているような感じで、美味しくいただけました。

 玄米ご飯が食物繊維やビタミンなどの栄養が満点であることは、皆さんご承知だと思いますが、小豆ではなく、大豆ですと、もっと栄養があるものがいただけると思います。

 ところで、五木さんの本のことですが、第1章が「時代を見すえる」第2章が「人生は憂鬱である」第3章が「下山の哲学を持つ」と続いて第4章「日本人に洋魂は持てない」第5章「他力の風にまかせること」第6章「老いとは熟成である」となり、最後の最終章としてこの本の題名である「人間の覚悟」で締めくくっています。

 今日は、このうち第1章から第3章までを読んだのですが、なかなか面白いものです。

 例えば、第一章「時代を見すえる」の小見出しには、「時代は地獄に近づいている。」「資本主義が断末魔の叫びをあげ、あらゆることが下降していくなか、「命の実感」が薄らいでいる。」とあります。

 そして、中身を見ますと、いきなり「地獄の門がいま開く」という衝撃的な文字が目に飛び込んできます。

 『闇が深さを増してきました。

 時代は「地獄」へ向かって、劇的に近づきつつあるようです。母親の子殺し、無差別殺人はすでに衝撃的な事件ではありません。

 少し前の朝日新聞の一面のトップに、自殺者が十年連続で三万人を超えたという記事が載りました。その数自体もさることながら、自殺が全国紙の一面にでてくるというのはじつに象徴的なことだと思います。』

 という書き出しではじまるのですが、五木さんはこういう時代が来るということを以前から指摘していたそうです。

 しかし、五木さんがここでいいたいことは、自殺者の数や、親殺しや無差別殺人も含めて、「これほど人間の命、生命にというものに対する軽さがドラスティックに進んでいる時代はないのではないか。最近、話題に『蟹工船』の冒頭の一文、「おい、地獄さ行ぐんだで!」になぞらえるなら、これからは地獄へ行くのだと覚悟しなくてはなりません。」

 ということのようです。しかも、問題は、毎日のように報じられる人の死について、それを受け取る側(私たち)は心を麻痺させたように沈黙している。みなが無言で崖っぷちを除いているような気配がある。地獄の入口の門が、ギギギ、と音を立ててt開き始めているような実感がある。

 と述べています。

 そして、人々がこういう時代にどのような「覚悟」が必要なのかを述べています。

 それは、

 『まず「生きる」こと。どんなにみっともなくとも、「生きつづけ」「存在する」こと。みずから命を捨てたり、他人の命をうばわないこと。

 それを覚悟のひとつとすれば、「人間はどう生きるべきか」が問題なのではなく、「人間は、今こうして生きていることにこそ価値がある」、と、そう思い続けているのです。』

 と言っています。

 当たり前のような話ですが、現在の命の軽さを見ると、命の大切さをこのように「覚悟」する必要があるということなのでしょう。

 「生きていることに価値がある」という言葉は、自分の人生に悩んでいる人々に多くの勇気を与えると思うのですが、小生なども本当に「救われる言葉」だと思いました。

 

 

 


人間の覚悟(五木寛之さん)から:地獄は一定すみかぞかし

2010年03月27日 | 本と雑誌

 毎日、手帳にメモを取るようにしていますが、長続きしません。

 何を書いているかといいますと、行事予定や買い物、訪問したところなどですが、後で読み返してみると、毎日が何となく過ぎているようでも、小生にとってはとても大事なことのように感じられます。

 かっては、仕事が一番重要だと考えていたはずですが、畑を耕して、家族の健康を心配して、近所の行事に参加して、そして、友人との交流などに心を砕くことなどは、もっと有意義なものだと思えるようになりました。

 そういう意味では、わが家も「渡る世間は鬼ばかり」のようなことがおこりつつあり?「のんびり夫婦で海外旅行」などといっている場合ではない、と考え込むこともあります。

 でも、人生、そう長くはないはずです。自分が元気なうちに好きなことをやっておきたいものです。

 そんなことを考えていたら、五木寛之さんの「人間の覚悟」を思い出しました。

 五木さんは、1945年の夏、中学一年生で、現在の北朝鮮の首都、ピョンヤン(平壌)にいたそうです。

 平壌がどのような街で、どうして自分の父親が北朝鮮にいたのかなどを述べています。そして、1945年の夏に日本が戦争に敗れたのですが、日本の国民の大部分は、最後まで日本が勝つと信じていたそうです。

 そして、一般市民は、敗れた後の行動について当時のラジオ放送「治安は維持される。日本人市民はそのまま現地にとどまるように」を信じて現地にとどまったそうです。

 ところが、敗戦の少し前から、高級軍人や官僚の家族たちは、平壌の駅から相当の荷物をたずさえて、延々と南下していたのだそうです。

 ソ連軍の戦闘部隊が進駐してからのしばらくは、口にだせないような事態が日本人慰留民をおそい、五木さんの母親も混乱のなかで残念な死に方をしたそうです。

 ここで、五木さんがいいたいことは、次の文章に表れています。

 『私たちは二重に裏切られたのである。日本は必ず勝つといわれてそれを信じ、現地にとどまれといわれて脱出までの苛酷な日々を甘受した。

 少年期のその体験にもかかわらず、いまだに私自身、いろんな権威に甘える気持が抜けきれないのだ。

 愛国心は、だれにでもある。共産主義下のソ連体制を徹底的に批判し続けたソルジェニーツィンも、異国に亡命した後でさえロシアを愛する感情を隠そうとしなかった。

 どんな人でも、自分の母国を愛し、故郷を懐かしむ気持はあるものだ。しかし、国を愛するということと、国家を信用することとは別である。

 私はこの日本という国と、民族と、その文化を愛している。しかし、国が国民のために存在しているとは思わない。国が私たちを最後まで守ってくれるとも思わない。

 国家は国民のために存在してほしい。だが、国家は国家のために存在しているのである。

 私の覚悟したいことの一つはそういうことだ。

 私たちは国家・・・

 国を愛し、国に保護されているが、最後まで国が国民を守ってくれる、などと思ってはいけない。国に頼らない、という覚悟を決める必要があるのである。』

 ということで、五木さんのいう覚悟とは、「国に頼らない覚悟」のようです。

 でも、この言葉からは、国など信用するな!ともとれますが、そうではないといっています。

 『国民としての義務をはたしつつ、国によりかからない覚悟。最後のところで国は私たちを守ってくれない、と「諦める」ことこそ、私たちがいま覚悟しなければならないことの一つだと思うのだ。

 こんなふうに主張すれば、さしずめ何かを信じるのはやめよう、と提案しているように思われそうだ。

 だが、そうではない。私は不信のすすめをのべているのではなく、むしろ逆の、人間の覚悟について語っているのである。』

 国は私たちを守ってくれないので、自分のことは自分で守るしかない、という覚悟が必要なんだ、といいたいのでしょうか?

 さて、この後に五木さんは、親鸞の言葉を引用しています。

 親鸞については、小生も若いころから興味があり、親鸞を書いた書物をいくつか持っています。

 中でも「歎異抄」を読んでみたくて、挑戦したのですが、自分の人生に五木さんのような苛酷な時がなかったためか、親鸞の心が自分のものになっていません。

 でも、こうして五木さんから、またもや「歎異抄」の素晴らしさがでてきましたので、再挑戦するしかないですね。

 五木さんは、このページで親鸞の言葉として、

 「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり、たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」

 を引用して次のように解説しています。

 『自分の信心に、特別な極意などはない。師である法然上人のいわれたとおりに信じて、ついていっているだけだ、というのである。その後につづく言葉は、おそらく目にした人は絶対に忘れることのできない文句だろう。

 自分が法然の言葉を信じてついていき、もし師に欺かれて地獄におちたとしても、自分は決して後悔したりはしない、と親鸞は断言するのだ。

 「地獄は一定すみかぞかし」

 すなわち、自分がいまいるのは、悟りすました解脱の世界ではなく、常に人間としての生きる悩みにとりかこまれた煩悩の地獄である、というのが親鸞の覚悟である。』

 だから念仏を信じ続けるのだ、師、法然を信じるのだ、ということになりそうですが、これくらい信じることができる師がいれば、たとえこの世が煩悩の地獄でも幸せなのかも知れませんね。

 小生には、法然のように信じられる人がいるでしょうか?

 そして、地獄の煩悩に取り囲まれているはずですが、あまり感じられません。自覚が足りない、ということでしょうか。

 五木さんは、「法然のような師をもち、この世は地獄の煩悩である、」だから「国などあてにしないで自分で生きる」覚悟をしなさい、といいたいのでしょうか?

 健康に悩み、家族に悩み、昇進に悩み、仕事の出来に悩み、人間関係に悩み、お金に悩み・・・なるほど、この世は煩悩の世界ですね。

 

 

 

 


金魚の死

2010年03月26日 | ペット

 わが家では、3年前くらいから小生の希望で金魚を飼い始めました。

 町中のペットショップで買ったのですが、その店の無愛想なおばちゃんに似て、金魚も無愛想ではないかと思ったものでした。でも、それは小生の変な思いこみで、決してそいう金魚たちではありませんでした。

 「ありませんでいた」などと過去形で書きますと、タイトルにあるように全部が死んでしまったようですが、5匹のうち、1匹が死んだのです。

 かみさんは、5匹の名前を付けて可愛がっていましたので、さぞ、「ガッカリ」しているのではないかと思ったのですが、覚悟をしていたのか、わが家の庭に穴を掘って線香をあげて静かに別れをしていました。

 でも、よくよく考えてみますと、おかしなものです。人間は、毎日、他のの生物を食べていきおり、特に、魚は「マグロ」で大騒ぎしたように「日本人の食文化だ!」などといって欧米人を非難しながら、食べているのです。

 小生などは、調査捕鯨を妨害する欧米人に対して、「欧米が同じほ乳類でかわいそうだという感情論でくるのなら、日本は、牛、豚などもほ乳類で可愛そうだから食べることを禁止すべきだ!」とかみさんに息巻いたことがあります。息巻かれたかみさんは「ニヤニヤ」するばかりでしたが・・・

 それはともかく、魚を毎日、「美味しい、美味しい」と食べている人間が、自分が飼っている金魚が死ぬと、悲しい気持になるのですから自己矛盾もいいところだ、ということになります。

 そして、死んだことが自分の責任のように金魚に「ご免ね。」と謝ってしまいました。

 人間は、自己矛盾だらけの生き物だということなのかも知れませんね。

 その意味で、日本人が食べる前に「頂きます」と言って食物の有り難さを感謝するのは、とても良いことだと思います。

 小生の「頂きます」の理解が違いますか?

 今日はわが家の金魚が死んでために食べ物について考えることになりました。