昨晩、考えていました。
正教会では信徒が描くイコンでないとイコンと認めていません。
それには反発や絵画表現の自由についてや様々な意見があるのですが
私は日本の伝統工芸でも一子相伝というものがあるように
イコンでもそういう信徒のみが伝えてきたイコンの表現があると思っています。
絵画表現としては自由です。
クリスチャンでもないのに、ゴシッククロスのファッションが大好きという若い人も多いし
自分の絵に十字架を描きたいから、十字架を描くことに反対する彼女とは別れたという画家もいました。
彼はクリスチャンでもなく、無宗教者でした。
イコンを描いているというと「宗教だからねぇ~。ちょっとねぇ~。」と言われます。
その女性の娘は神社で式を挙げ、母親は寺で葬式をしています。
「宗教だからねぇ~。ちょっとねぇ~。」と言った人がです。
これはとても不思議でした。
今まで生きてきた日本人でまったくの無宗教でこの世で暮らした人はいないと思います。
必ず何かの宗教と関わり生きてきたはずです。
「宗教だからねぇ~。ちょっとねぇ~。」という、
こんな迂闊な発言をする人は、教養のない人だと私は思っています。
自分の先祖をも否定するように思えるからです。
「誰によってあなたは生まれてきたのだ?先祖がいたからじゃないのか?」と言いたいのを我慢して
私はにっこり笑っておりました。
学歴と教養は違います。
今の日本では、学歴はあてになりません。
学歴はあっても教養のない無礼者がたくさんいます。
教養を子どもたちに見につけさせるべきです。
イコンの話に戻ります。
「教会へも行かず、神父にも会わず、聖書を知りもせず、でもイコンを描きたい」という人もいます。
これは、日本の文化に合わせてみれば
「寺へも行かず、住職にも会わず、経典を知りもせず、でも仏画を描きたい」ということでしょうか。
私は学生時代は曼陀羅や仏画の勉強をしていましたから
「お寺さん、ご住職もそれ聞いたら怒らはるやろな」と思います。
絵画表現は自由ですから、それはそれで描いていけばいいと思います。
けれども、私はそうはいきません。
仏画を描いていくのかと思ったら、ご縁あってイコンを描くようになったのですから
こちらをして死のうと思っています。
もちろん、仏画というものをいまだ尊敬していることにかわりありません。
ただ、私はたくさんのことはできません。
何事をするにも覚悟がいります。
万字や鳥居じゃかっこ悪いから十字架にした・・・なんてのはとんでもない。
深く知りもせず、表現するなんてありえない。
正教会が言われる「信徒の描くイコンでないとイコンと認めない」という言葉の意味にも
深い深い歴史上の意味があります。
歴史を知りもせず勝手なことは言えません。
勝手なことを言う人を「教養のない人」と言います。