浅茅生の 小野のかたへの 青楠に 銀の小栗鼠の 棲むを見る月
*これもツイッターから。今年の春の初めごろに読んでもらったものです。
「浅茅生の(あさぢふの)」は、「野」とか「小野」にかかる枕詞です。かのじょがよく遊んでいたあの小さな野原のことを詠むときには、よくこの枕詞を使います。浅茅の茅はカヤ草のことだ。要するに浅茅とは丈の低いカヤ草のことです。まあ、野原に生える普通の雑草と思えばよい。
そんな何気ない普通ののっぱらの隅に、あのくすのきはぽつんと立っていた。あの人は、そういうものに心惹かれる人でした。自分だけが、遠い故郷から離れて、全然別の世界に一人で生きているような気がしていたからです。だから、森や山から離れて、たったひとりで、野原の片隅に立っているくすのきを見ると、寄っていかずにいられなかったのです。
「銀の小栗鼠」とは、かのじょが鳥音渡の名前で出した架空の詩集のタイトルからきています。銀の栗鼠とは、自分の中にいる本当の魂の隠喩です。
自分の中には、銀の栗鼠のような何か暖かなものが息づいている。それはとても弱くて小さなものに思えるけれども、銀のように清らかで美しいのだ。
そういう魂が、あのくすのきの中にも見える。
木はもののように何も考えていないものではない。確かに何かを感じる魂があるのだ。銀の小栗鼠のような美しい魂を持ちながら、あのくすのきはあそこで何を考えているだろう。ひとりで、野の隅に立って、何を考えているだろう。
そんなことを思いながら、あの人は毎日のように、あのくすのきの元を訪ねていったのでした。きっと、ひとりでこの異郷に生きている自分と、響きあう心を交わせるだろうと。そしてその期待は、裏切られなかったのです。
くすのきも、かのじょに心を響かせてくれた。毎日のように会いにきてくれるかのじょを、深く愛してくれたのです。
愛の薄い人生の中にあって、かのじょにとっては、だれかが自分に寄せてくれた最も高い愛と言えましょう。
さびしいが、これが現実というものだ。愛に未熟な人間たちは、真っ向からあの人を愛することができなかった。だから、単純に嫉妬して、あのくすのきを伐ってしまった。そして、愛する人の命を縮めてしまったのです。
後で後悔しても戻らないが、しかし、二度と同じ過ちを繰り返さないことは、できるでしょう。