しらたまの わがこかはゆや たんとやろ おまへたれでも かぞいろうれし
*これも、スピカの絵付き短歌の歌です。
「白玉の」は「我が子」とか「君」などにかかる枕詞です。
白玉のように大切な我が子よ、かわいいかわいい、たんとやろう。おまえがだれであっても、親はうれしいぞ。
「かぞいろ」は「父母」という意味の古語です。古い言葉では父は「かぞ」、母は「いろ」とか「いろは」とか言いました。あたたかい言葉ですね。この国ではまだ親のことを「かぞいろ」と呼んでいた時、親子の断絶も葛藤もなかったのです。親はそのまま子にとって、最もいいものでした。
「たんとやろ」などという崩した言い方が暖かいですね。こういう表現はスピカらしい。わたしだったらもうすこしきちんとした表現をするでしょう。無粋なので詠いなおしなどはしませんが。彼のこういう読み方にかなう歌を詠める気はしません。
ところで、この歌はたしか、ミルコ・ハナークという美しい動物の絵を描く画家の絵につけたものでした。絵の中では、おそらくカッコウか何かのひなに、ほかの小鳥の親が餌を与えているという図が描かれていました。
知っていると思いますが、カッコウやツツドリなどという鳥は、托卵と言って、ほかの鳥の巣に自分の卵を産みこみ、ほかの鳥に自分の子を育てさせるのです。ずいぶんと横着な習性だが、こういう生き物が存在していることにも、何か深い意味があるのでしょう。
カッコウのひなに、ほかの小鳥の親が餌を与えている絵に、この歌が添えられていると、また何か深い意味が生じますね。親にとっては、その子は本当の子ではないのだ。しかも、自分の本当の子を殺した子でもあるのだ。
親鳥はそんなことは知らないでしょう。鳥はただ、こどもをいいものだと思って、食べ物を運んでくることに、夢中になっているだろう。だがわたしたちはその姿を見て、感じられることがある。
罪の大きな子でさえも、いやそうであるからこそ、深いところでつながっている何かがある。それを頼りに、愛し合っていきたい。
我が子よ、おまえがだれであっても、わたしはうれしいぞ。
愛は、確かには見えないが、奥底でつながっているその何かを信じて発するものだ。馬鹿なことにしないで、一生懸命に育てた子供はいずれ大きくなって、山の空を、美しい声で鳴き渡るだろう。