月眠る いはとならねど 人知れず わびては魚の 音をのみぞ鳴く
*ツイッターでは毎日本歌取りをしています。最初、ツイッターは私撰歌集という触れ込みで、わたしの集めた歌のコレクションを紹介していくことを主な目的としていたのですが、あれよあれよと言う間にみなが参加して、今のようなことになってしまいました。
一応歌をメインにしてはいるのですが、最近ではいろいろなことをごった煮のように盛り込んで、何が何やらわからなくなりつつあります。
その中で一応、これだけは続けて行こと思ってやっているのが、朝の本歌取りです。これを忘れてしまったら、ムジカの私撰歌集でなくなってしまいますから。
一応タイトルは尊重しませんと。
この歌は、清原深養父のこの歌の本歌取りです。
煙立つ おもひならねど 人知れず わびては富士の ねをのみぞなく
毎回元歌を微妙に言い換えるのが楽しみだ。表題の歌は一応解説しておきましょう、こういう意味ですね。
月とたとえられるあの人が眠っている岩戸ではないが、人知れず心がわびては、魚のように鳴いていることだ。
岩戸というのは決して開きませんから、そのように沈黙しているということです。魚は決して鳴きませんから、魚が鳴くということは、静寂とか沈黙の意味になる。こういう表現の仕方は、このブログの最初の方でやりました。
しかし沈黙しているということはそういいことではない。すまないという詫び言の一言も言えないということですから。
沈黙しているということは、少なくとも自分が悪いということはわかっているということだ。だが、本当に悪いと思っているのなら、詫び言の一言くらい言わねばなりません。それでなければ、自分が大変なことになる。
悪い自分を正当化しようとしてあがき始めれば、また地獄が始まる。
そうなる前に、潔く、自分が悪かったと、一言でもいうべきなのです。