かしのみの 孤独と言ふは われのほか たれも愛さぬ もののとがなり
*これは枕詞の応用ですね。「樫の実の」は「ひとつ」とか「ひとり」にかかる枕詞ですが、いつもそう硬く考えることはない。少しやわらかくして、「ひとり」から「孤独」を呼んでくることができます。
よく文学作品では「孤独」と書いて「ひとり」とルビを振ったりしますが、ここでは「こどく」と読んでください。そのほうが意味がしまる。
枕詞というのは便利ですね。この前までツイッターでは蘭が毎日のように枕詞をやっていましたが、なんでもいいことはやってみるべきです。おもしろいことは、とにかくやってみる。やってみたことからまた、おもしろいことが芽生えてきます。そして本当の自分の力は、そういうことからだんだん大きくなってくるのです。
孤独と言えば、かのじょにはほとんど友達はいませんでした。人間の友達はね。若いころからわかっていたのです。自分が標準以上に美しいというだけで、見る人が苦しむということを。ですからそれもあって、あまり人には近寄って行かなかったのです。
自分を見ると、人の目の中に嫉妬が起こる。そして人はその嫉妬をごまかす表情をしたり、痛いことを言ったりする。そういうことを見るのがつらかったのです。
でも孤独ではありませんでした。常に胸の中には神がいましたし、植物の友達はたくさんいた。花や木は、嫉妬に苦しんで痛いことをしたりはしない。寒い心を投げてきたりもしない。愛すれば、素直な心で、愛を返してくれる。とても深い愛を。
ですからかのじょはひとりに見えて、決して孤独ではなかったのです。いつでも誰かを愛していましたから。
ですが影からかのじょを馬鹿にしていた大勢の人間が、孤独ではなかったかと言えば、そうではない。小人は同じて和せずなどというように、表面上は口を合わせていても、心は決して響いてはいない。愛してなどいない。
だから、最もつらい時になれば、だれも助けてくれないのです。だれも、だれかを、愛していないのです。それが、本当の孤独です。
大勢いるように見えて、じつはそれは最も深い孤独なのです。いやなことをするために、弱い人間が集まって、互いを利用しあっているだけなのです。
かのじょはひとりに見えて、いつでも植物たちが愛してくれていた。そして守ってくれていた。愛に包まれていた。友達などだれもいない状態にすれば、馬鹿にできると思っていたでしょう。男はよく、美人に対してはそういう手を使うのですよ。そんなことは、もうとっくに女性は知っているのです。もうやめなさい。
孤独というのは人間を神に心開かせる。いつでもそばにいてくれる愛に触れていくうちに、神にたどりつく。人間世界で馬鹿にされている間に、美女の心は神の世界に行ってしまったのです。