きのふこし 人にあはむと 立ち枯れの うつろに座る ゆふべなるかな
*これもすぴかの絵付き短歌のうちのひとつですね。あれは実に彼らしい表現でした。自分の好みで選んだ絵に、きれいな歌をつける。この歌がついていた絵は、確か大きな虚ろのある枯れ木に、寂しそうな熊がもたれかかっているという絵でしたね。
画家の名前は失念してしまいましたが、メルヘンチックでかわいらしい構図は彼の好みです。実に品のよい趣味だ。そういう彼の世界を伺い見るのは心地よい。
わたしではこういう仕事はできません。
昨日来た人に会おうと、立ち枯れてしまった木のうつろに座って待っている、夕べであることよ。待ってももう来はしないのに。
おとといきやがれ、などという言い回しがありますがね、不可能なことを言って、拒絶する言い方です。もう過ぎた時間に戻ることはできませんから、これは二度と来るなという意味になる。魚の声などというのと同じ用法です。捕まえ方によっていろいろな応用ができるので、やってみてください。
昨日ここに来ていたら、会えたかもしれないのに。昨日は来なかった。なぜ来なかったのか。たぶんそのときには、そんなことなど馬鹿なことだと思っていたのです。人に会うためにそこにいくことなど。そんな人に会いたいなどと思うのは馬鹿だと。だから行かなかった。そしてその結果、もう二度と会えないことになってしまったのです。
そういうことは多い。人間は、チャンスなど何度もあると思いたがるものだが。実に、そこを逃したらもう二度とないということは、よくあることなのです。たった一度の間違いが、人生のすべてを決めてしまうことがある。そしてだいたい、人間はその過ちを、終わってから気付くのだ。
次の日、約束の場所に行っても、会えはしない。なぜなら、会わないと自分で決めたからです。運命というものは、そうやって自分で決めているものなのだ。
立ち枯れの木のうつろというのがさびしいですね。もう終わってしまった夢をたとえているようだ。その木はかつて、豊かに生き生きと緑の葉を茂らせていた大きな樹であったろうが。終わってしまえばもうそれは残骸でしかない。そこで待っていても何もなりはしないのに、人は時々、いつまでも待っている。
会わなかった人が、ほかのどこにもいない、世界中でたったひとりのあの人だったとは、知らなかったからです。