たくなはの 千尋の底に 落ちてしを いかにひろはむ とほき月影
*「たくなはの(栲縄の)」は「長き」とか「千尋(ちひろ)」にかかる枕詞ですね。枕詞は便利で使いやすいです。数多く覚えておけば、とっさに歌を詠むときなどに呼び水となってくれます。
千尋の底というのは、要するに、千尋も深い谷の底という意味です。獅子が我が子を千尋の谷底に落とすなどという伝説は有名ですから、それからとっています。まあここでは、奈落の底に落ちてしまったという意味で使っていますが。
千尋の谷底のように深い奈落に落ちてしまった人を、いかに拾おうかと、あの遠い月は思っているのだ。
「月影」は月の光のことですが、ここでは月そのものを言い表します。
もう何度も言われているのでわかっているでしょうが、かのじょの本願は人類のすべてを救うことでした。それが可能か不可能かはべつのことです。ただ自己存在というものは、自分の心がそう思うことを裏切ることはできない。自分というものは、どうしても人間を一人も切ることができないと思えば、その存在はその目的に向かって生きるのです。
結果がどうかということは、後でついてくることだ。なんでもやってみねばわからない。自分がそれを本願として活動する限りは、少なくとも救われる人間の数は増えるに違いない。
これを馬鹿だという人はもういないでしょう。確かにあの人は、人類のすべてを救えるような日記を書いたのです。あれは、あの人でなければできないことだ。
ほかの天使なら違うことをしたでしょう。おなじ天使でも、考え方は全く違うからです。
すべてを救いたいと思う天使もいれば、だめなものは切る方がいいと考えるものがいる。どちらが正しいかという問題ではない。世界というものは、どちらの存在もいるから、なんとかなっていくのです。ですからわたしたちは、意見が真っ向から対立していても、論争したりはしない。互いに自分を信じたことをやっていけば、大いなる神の心の中で、何かになっていくのです。
結果的に、かのじょの思い描いていた人類の全てを救うという願いは、ほとんどかないませんでした。救おうと思っていた人間に、総攻撃を受け、倒れてしまったからです。このように、どうしようもない現実というものはある。そういうこともわかっているが、やらずにいられないのが、自分というものだ。
だがかのじょがやってくれたことは、それを見ていた人の心に残っている。
それが遠い未来に、何かになっていくだろうことは、確実に本当なのです。