はなざくら うすくれなゐに とほざかる おれがいろはの さびしきゑまひ
*これもすぴかの絵付き短歌のうちの一つですね。ボッティチェリのかわいらしい聖母の絵につけた歌です。うすべにの薔薇を背景にして、少女のような聖母が赤子のイエスを抱いている。
「いろは」は母親のことです。ですから「おれがいろは」とは自分の母親のことですね。母親を詠いこもうと思えば、普通「たらちね」を使うでしょうが、彼はなんとなく、もっといい言い方をしたかったようだ。「おれがいろは」なんていうことばは、古語の文献にも見たことはないが、古い言葉を使って、なんとなく蓮っ葉な言い方をしてみたくて、「おれがいろは」となったようです。
桜の花を見ていると、うすべにの中に遠ざかっていくような気がする。おれのかあちゃんの、あの寂し気な笑顔が。
こんな感じでしょうか。ボッティチェリの聖母の顔は、確かにどこか寂しそうでした。女の人はよくこういう顔をします。愛しても伝わらないんだろうな、という顔。勉強しなくちゃ。いいことは全部自分でやらなきゃ。泣いたって何もなりはしない。
きれいな人ほど、人には馬鹿にされる。それでも、自分から痛いことはできない人は、耐えてやっていくしかない。自分の愛を高めて、自分でやっていくしかない。そんな孤独の中に心を高めていくとき、女性は清らかに寂しげな微笑みをするのです。
それがまた美しくて、人は嫉妬する。そして女の人は、あらゆる人に拒否されて、消えていくしかないのです。
うすべにの桜というのは、毎年咲いてはくれるけれど、いつも溶けるように消えていくのだ。寂しさを残して。咲いても咲いても、わかってはくれない。愛というものは結局、それでもいいと言って、笑っていくことしかできないのだ。
だがその愛も、人間が愚弄しきれば、もう帰って来てはくれなくなるのですよ。うすべにの桜が、青くなる。突然、何かがひっくり返る。そして人は、いつしか自分が全然違う世界に入ることを知るのです。
何千度と裏切っても、愛は耐えてくれた。また来てくれた。だが、ある日突然、永遠にあると信じていたものが、消える時がくる。
そうなって初めて、人間は自分の愚かさを知るのです。