ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

独り身

2017-12-21 04:20:10 | 短歌





籠り沼の 下もなきほど 独り身の さみしき猿と なりにけるかも





*「籠り沼の(こもりぬの)」は「下」にかかる枕詞ですね。同じようなのに「隠れ沼の(かくれぬの)」があります。どちらも魅力的な言葉だ。活用しましょう。ちなみに「籠り沼」とは草木が茂った下に隠れて見えない沼のことです。

籠り沼は下が見えないが、その下もないほどに、独り身がさみしい猿となってしまったなあ。

まあ、現代風に訳せばこうなりますか。別に枕詞は訳さなくてもいいのですが。意趣はなんとなくわかると思います。

猿のように自分のことばかり考えて、わがままばかり盛んにって、人に迷惑をかけつくしたら、とうとう誰にも相手にされなくなって、この下はないというほど孤独になってしまった。

そういうことになってしまった人を、たくさん見ていることでしょう。

今の時代は、傲慢にふるまって人を馬鹿にしている方がかっこいいなんて風潮がありましたね。アニメや漫画なんか見ても、子供みたいな主人公がずいぶんと傲慢なことを言っている。威勢のいいことといったらないが、実際の世界では、10代や20代の若造が人類を救ったり地球を救ったりなどできるはずがありません。その年代はみな勉強の真っ最中だ。恋愛や結婚をして、子供を作り、額に汗して働いて、社会を勉強せねばならない。

天使もそういうことをしていましたよ。人類の救済ということを目標に掲げた時、かのじょがいちばん先に感じたのは、自分の実力不足でした。だからその大目的のために、まずは勉強しようと考えたのです。

途中で妙な宗教グループに参加したりしましたがね、あれも勉強したかったからです。自分は神やこの世界の真実について実に無知だ。だからそれについて知っている人に学びたかったのです。

その結果、実に面白いことを学びましたね。教祖の言っていることには、おもしろい真実も含まれていましたが、大方は嘘でした。そういうことは、そのグループをやめてからわかりました。

痛い授業料を払ったが、大きく経験値を稼げた。学びというものはこういうものです。時には愚かな失敗も経験せねばならない。そうして大人になり、十分に実力がついてきたころ、かのじょはあの日記を書いたのです。

救済というものは、そういう勉強をしてきてこそ、できるものですよ。

若いうちがかわいくて威勢がいいからと、何でもできると思ったら大間違いです。何も知らないものはいつも、無知につまずいて大きな失敗をする。傲慢をかまして、やってはならないことを堂々とやり、世間に嫌われて、つらい孤独に落ちるのです。

一生の半分を、世間の人に嫌われて、孤独に過ごさねばならない。

勉強をしない人というのは、たいてい、人生の後半、そういう孤独な老人になりますよ。






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せぬせぬしね

2017-12-20 04:19:29 | 短歌





長き夜を せぬせぬしねと なきてこし 馬鹿はあしたの 野辺に散りぬる





*蝉の歌から発展して、みむみむせむ、とか、せぬせぬしぬ、とかの言い方が板についてきましたね。こういう聞きなしというか、しゃれはおもしろい。鳥のさえずりなどの聞きなしの応用というべきものでしょうか。日本語の伝統というのはじつに便利なものです。

手元の野鳥図鑑などをくってみても、日本の人が鳥の声をどんなふうに聞いてきたかが書いてあっておもしろいですよ。ほととぎすは「特許許可局」とか「てっぺんかけたか」とか鳴いているように聞こえるそうだ。

時々、わたしたちの歌では、ほととぎすが「ここよ」とか「ここよき」とか鳴いていることになっていますが、もちろんこれは、本当はほととぎすではなく、カッコウのほうです。カッコウの、カッコウと鳴く声を、「ここよ」と聞きなしているわけです。いろいろな歌を読んでいると、時々「郭公」と書いて「ほととぎす」とルビを振っているものがあったりするものですから、ちょっと混同して使っているのです。まあ、野鳥図鑑で見ても、カッコウもホトトギスもとてもよく似ていて、素人では見分けがつきませんし。


ほととぎす ここはよきとぞ 鳴きわたり 一世の夢を よろこばむとす


それはそれとして、表題の歌はちょっと厳しい。

長い夜の時代を、せぬせぬしね、と鳴いてばかりきた馬鹿は、朝が来た野辺に散ってしまったことだ。

「あした」は「朝」のことです。「明日」の意味もありますが、前後で判断しましょう。「せぬせぬしね」というのは、要するに、自分は何もしないで、人には死ねと言って馬鹿にしてきた、という意です。実際何もしない人というのは、何もしないでできた時間を、他人を観察して馬鹿にすることばかりに使います。人が一生懸命やっていると、それだけで自分が焦ってくる。勉強する人にはそれなりのことがありますから、だんだんと美しく立派になってくる。馬鹿はそれがうらやましくてねたましくて、いやらしい邪魔ばかりするのです。

そんなことばかり、三千年もやってきて、とうとう、人類史の特別な決算の時代が来て、もはや万事休す、何もしたことのない人は何もすることができず、進化の試験に通れなくて、人類を落ちてしまったのです。

そして、人を馬鹿にして人の邪魔ばかりしてきて、人類に迷惑をかけてきた罪を、これから存分に支払わされるのです。






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見えぬひとや

2017-12-19 04:20:03 | 短歌





花筐 目並ぶ人の かほは透き 見えぬひとやの 鬼となりゆく





*今日は添島の作をとりあげましょう。繰り返し言いますが、添島揺之は、この存在を利用している人格のひとつです。ただわれわれと違うのは、彼が人霊だということです。それは彼のブログを見ていても感じるでしょう。うまい歌だが、われわれとはやはり違う。

冒頭の作は、彼がある日自分のブログを眺めていた時に詠んだ歌です。コメントもないし、表向き何の反応もないのだが、ブログの画像から多数の人間の声が聞こえてくる。彼は生きている人間ではないものですから、そういうことを強く感じるのです。

その、ブログを見ている人間たちの言っていることがまたきつい。どんどん馬鹿になっていくのに何もしようとしない。ずるいことをして、何とか裏でごまかして、自分たちを助けることができないかと、馬鹿なことをやっている。

実際、彼らはこれまで、自分を脅かすような才能はことごとくつぶしてきたのです。自分よりうまいと感じる歌詠みは、ことごとく馬鹿にしてきた。要するにそれで自分を高いものにしてきたのだが。

まさか、死んでいる者が生きている者の世界にこういう形で乗り出してくるとは思わなかったのです。

添島揺之の歌は生き生きしているが、彼はこの世界に生きている魂ではない。霊界に籍のある死者なのです。これはたまらない。殺そうにも、死んでいる者を殺せるわけがない。

「花筐(はながたみ)」は「目並ぶ」にかかる枕詞ですね。「目並ぶ」とは「多くの人の目で見定める」とか「見比べる」とかいう意味だ。「ひとや」は牢屋のことです。

このブログを多くで見ている人の顔が、透明人間のように透き通り、見えない牢屋の中の鬼のようなものになっていくよ。

意味はあまり解説せずともなんとなくわかるでしょう。彼らは簡単に添島に見抜かれている。添島ブログを見て、敵とするか味方とするかも決めあぐねている。とにかく自分を守りたいのだが、どうしていいかわからない。そういう顔が透けて見えているのだが、何もやらないでいるうちに、見えない牢屋のようなものに閉じ込められて、どんどん鬼のようなものになっていくだろう。

鬼というものは何だと思いますか。我に凝り固まってなんでも痛いことをやっているうちに、どんどん嫌なことになっていく馬鹿のことです。






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冬のてふ

2017-12-18 04:20:09 | 





冬のてふ かすかにも聞く 神の声     夢詩香





*もうここではめったに俳句をやらなくなってしまいましたね。どうしても、ツイッターの方でおもしろい歌ができるものですから。だがたまには俳句もとりあげないといけません。新作はできていないのですが、わたしの在庫のノートにもまだたくさん句があります。

この項を発表する頃にはもう12月になっていますから、もう蝶など見ないでしょうが、これを書いているのは11月の下旬です。つい最近まで小さなシジミチョウが飛んでいました。陽だまりの花畑などに小さなかけらのような蝶が安らいでいた。もうそろそろ秋が終わるのだということに気付いているのかどうか。少し傷んだ翅を閉じて、花の近くに静かに止まっていた。

こんな小さなものにも生がある。蝶は、寒さがきたせいでしょう、あまりよく動けない自分を感じてすこし憂えているかのようだった。

虫はいつの間に消えていくものでしょう。気づけばいなくなっている。一段と冷たくなった風に震えながら、去年のセーターなど出して重ね着し始めるころには、もうだれもいない。

毎年わかっていることだが、繰り返し経験するたびに、不思議に思います。春がくればまたあの美しい蝶と出会える。とこしえの硬いちぎりのようにそれは繰り返される。何のために神はそのようなことをやってくださるのか。

わたしたちの幸せのためなら、どんなこともやってくださるのだ。

たったひとひらの蝶にさえ、神の声は届いている。切なくもやさしい声で、もうそろそろ終わるぞと。心配はない。何もかもをやってやるから、安心して死ぬがよい。

蝶は冬の風に溶けるようにいなくなったが、その命と魂は消えたわけではない。冬を耐え忍ぶことを繰り返し教えるために、神はずっと見えない愛の中に抱いて下さる。

なぜそのようなことができるのだろう。

季節がめぐるたびに思う。






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一つ星

2017-12-17 04:19:49 | 短歌





ぬばたまの 闇空に照る 星もなく ただ見るものは 身の一つ星





*一つ星とは、北極星のことです。目立たない小さな星だが、ほとんど動かずに空にあり、世をゆく旅人の目印となってくれる星。

だが空に照る星など何も見えない夜には、その星も見えない。そういう時はどうすればいいのか。自分の中にあるひとつ星を見てゆくのだ。

たとえこの世界が逆風の吹き荒れる嵐の世界だとしても、自分の中にはまぎれもない本当の自分がいる。それがいやだということはしなければよい。常に、本当の自分がいいということをしていればよい。それを身のひとつ星というのです。

かのじょはよくこういうことを言っていましたね。自分がいやだということはしなかったと。常にこの自分に心地よいことをしてきたと。その結果が、自閉の半ひきこもりのおばさんだと。

今の世界を、まっとうな感覚でまっすぐに生きていこうとしたら、こうならざるを得ないと言っていました。まさに、そのとおりです。まともな神経で、こんな世界が生きていけるわけがない。だれもかれもが嘘をついている。その嘘が苦しくて、自分よりいいと感じるものを見たらしつこいまでにつきまとって呪い殺そうとする。

恐ろしく嫌な世の中だったのです。全部が全部とは言いませんがね、今の世の中馬鹿がはびこりすぎている。自分が嫌なばっかりに、嘘だけで作った自分を着て、いかにも立派できれいな人間の振りをしているが、やっていることはいつも、人を馬鹿にすることばかりだ。

そういう世の中で生きていれば、まじめな人は引きこもり状態になるよりほかはありません。

ニートだなんだと言われますがね、そういうものを作っているのは、馬鹿が吹き荒れるこの世界なのだ。いやらしい人間がいすぎる。清らかにまじめに生きようとする態度を見せようものなら、そういうものが一斉に襲い掛かって来るのです。人間は、あまりにも愚かな闇に迷い込んでいるのだ。

泥よりも深く暗い闇の中で、身の一つ星さえ溶けてなくなるほど自分を馬鹿にしまくっているのだ。

馬鹿なことになりきって、すべてがだめになっても、彼らはやめられない。

もう永遠に、元の自分に戻れない奈落に、落ち切ってしまったというのに、まだ同じことを繰り返している。

自分という一つ星を、全部だめにしてしまったのです。






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とほき心

2017-12-16 04:19:57 | 短歌





かの月の とほき心も 引かるれば あつきおもひを うたはむものを





*「引かるれば」の「るれ」は可能の助動詞「る」の已然形ですね。「る」は動詞の未然形につき、「引かる」で「引くことができる」と訳されます。接続助詞「ば」は未然形につくか已然形につくかで意味が変わると辞書にありますが、実情はけっこういいかげんだったようです。そう細かく気にすることはない。この場合は「引くことができたなら」と仮定条件で訳しましょう。

あの月にたとえられる人の遠き心も、糸のように引いてくることができれば、近くによってこのあつい思いをうたうだろうものを。

とても遠すぎるし、糸で引くことなどできはしないのだ。

かなわぬ恋というのは難しい。

恋のみづに浸っているときの、悩みまどう情感の中にいると、自分のつらさもしびれて、ひとは自分がなにものかになっていくかのような、上昇感に似た思いに酔ってしまうのだ。

なかなか出て来れない。あの人が遠ければ遠いほど思ってしまう。

思うてもむだなことは思わないほうが良いのは本当だ。それができればそれほど簡単なことはない。むだなことでもやりつくしてしまうのが恋というものだ。

まあ、それにも限界というものがありますがね。

しかし無駄なことというのも必ずしも無駄だというわけではない。無駄なことと思ってやっていることの中から何かが芽生えてくることがある。やりつくしてしまった自分の愚かさを土壌にして、全てをやり直すために新たな種をまくと、そこから新しい自分も芽生えてくるというものです。

一切は馬鹿なことだったのだと、認めることができさえすれば。

益体のない恋など捨てるほうがいいのだが。捨てることができなければ、ある程度は迷ってみるのもいいでしょう。その焦り、苦しみ、悲しみ、恨みつらみ、味わった感情全てが自分のものになる。

経験値を稼ぐことができる。

恋というものほど、人間の情感を太らせるものはありません。ただし、馬鹿になり過ぎる前に、自分でなんとかできねばなりませんよ。


身を捨つる 恋の恨みも なよ竹の 夜々をかさねて 忍び果てにき    夢詩香






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堪忍の緒

2017-12-15 04:19:20 | 短歌





巾着や かひなき意地の 玉は捨て 堪忍の緒で その口閉めよ





*これもインスタグラムで、あるところに贈った歌ですね。きれいな模様の布で巾着や小さなポーチなど作っているところです。

かわいらしい仕事だが、おそらくデザイナーでしょう。本人がやっている仕事でした。だからフォローを入れたのだが。

しかしそこはいろんな人がやっているところなので、中には少々きつい人もいるようなのだ。

そういう人が時々棘のある返事をして来るので、それを少々いさめさせてもらったのです。

対抗意識など捨てなさい。馬鹿にすればきついものが返る。もう二度と、人を馬鹿にするようなことを言ってはならない。

たとえそれを甘い口調でごまかそうとしても、心はにじみ出るものだから。

人間はもう見えないものを見、感じる力が強くなってきました。

あいしてる、と書いてあっても、それを書いた人の気持ちによって、読んだ人の感じ方が全然違うのです。たった五文字の言葉は同じなのだが。

こんなのうそだよ、と思いながら書いた「あいしてる」は、とても痛い。すごくいやな感じがするのだが。本当に素直な気持ちで、相手が愛おしくて言った「あいしてる」は、とてもここちがいいのです。

言葉は記号ではない、天使なのだ、と言ったのはかのじょなのですが。おもしろいたとえだがこれはこういう意味でしょう。言葉は記号ではない。魂なのだと。

怠りの罪に自分を投げている人は、こういうことを認めたがらないものなのだが、もう認めなさい。人間が高い段階に入り、細やかに心をみぬけるようになった現実から逃げていては、もう人間を落ちてしまう。次の時代に入る人類社会についていけないからです。

真面目に勉強し、心の修行をしていきましょう。

そのためには、嫌なことを言いたい気持ちを我慢することくらいは、やれねばなりませんよ。






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いつはりの林檎

2017-12-14 04:20:37 | 短歌





すずなりの あをき実をなす いつはりの 林檎たふれぬ 幻想の種




*インスタグラムで、本物の作品を探して思うことは、それがいかに少ないかと言うことです。

ほとんどのひとが、自分ではやっていない。ほかのだれかの霊に自分の仕事をやってもらっているのです。今はそういう時代なのだ。

馬鹿ばかりが繁栄しているので、馬鹿で自分を立てようとしている人ばかりが目立つ。本当の自分の力でやっている人は本当に少ない。

偽物の中には、それで本当によいことをやっていて、本物でないのが激しく苦しいものもあるのですが、やはり偽物は偽物だ。どんなにきれいなことをやっていても、どこか臭い。それはことがあれば容易に出てくるいやなものを、中に隠している。

青い実というのは、かのじょのこの歌から発して、虚偽を表します。


花の実の 朱をあざむきて ことごとく 青きにしたり 阿呆の宴


馬鹿が嘘ばっかり言って、赤い花の実を全部青にしてしまったよ。

これが秀逸なので、わたしたちも青い実というのを虚偽の隠喩に採用しているのです。

で、表題の歌になりますが。

すずなりに青い実をつけた林檎の木がとうとう倒れてしまった。あれは幻想の種だったのだ。

つまりは、最初から嘘だったという意味です。最後の七はおもしのようなものだ。歌全体に響く。

世の中を見渡すと、偽りの実をなす林檎の木は栄えに栄えているように見えるが、じつはもう倒れているのです。

馬鹿は正体を見破られ、切ない自分の本当の姿を見られながら、木にぶらさがっているしかない。みんなでかろうじて立っているように見えながら、もうとっくに腐っている。

そのままではいずれ、吸い込まれるように真っ逆さまに落ちるのだが。

馬鹿にはなにもできないのです。

なにもしたことがないからです。

いずれ、この世のすべての偽りの林檎が倒れたら、今度こそはこの世に、美しいまことの林檎の木が生えてくるでしょう。






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われのほか

2017-12-13 04:19:25 | 短歌





春に咲く 花おほけれど われのほかに 冬をたふるは なきとこそいへ





*これはすぴかの作ですね。これを書いているのは11月19日ですが、今ツイッターではすぴかが締め歌5首をやっています。

ツイッターでは次々に、いろんなものがいろんなことをやっています。大火のコントも、今のところまだ終わりそうもありません。

この項が発表される頃には、どうなっているかはわかりませんが。ツイッターの活動はいろいろと各方面に影響を投げているようですよ。それで表向き完全無視というのがかえって痛いですね。

よほど重大だということです。

それはそれとして、これは、読んだらわかるでしょう。冬に咲く花と言えば山茶花のことだ。冬の最中に燃えるように赤く咲いてくれる花のことです。

この歌の先に、すぴかのこういう歌がありました。


明々と 光るごとくに 咲く花の何故冬を よりしかととふ


あかあかとひかるようにさくその花は、なにゆえにその季節を冬に選んだのかと問う。

するとそれに花が答えたという感じで詠んだものが、冒頭の歌です。

春に咲く花は多いが、わたしのほかに、厳しい冬を耐えることができるものはないといいます。

終わりの七は係り結びですから、強い意が生じますね。まるで冬に生きる厳しさをいい名がら硬くくちびるを結んでいるようだ。

冬に咲くことができると簡単には言うが、それは咲いているものにとってはまた、難しいことなのでしょう。

それがどんなことなのかは、山茶花になってみなければわからない。


さざんかのさきにほふ野にひとりゐてわびしきことをたふるすべとふ    夢詩香


なにごとにつけ、先達というのはいるものだ。厳しいことを耐えないで生きていけるものなどいない。だれにも冬の最中を耐え忍んでいかねばならない時はあります。そんなときに、赤い山茶花を見るとほっとする。あなたも耐えているのかと。

こんな季節に咲いてくれる花があることを、人はかみしめる。そして自分も生きていかねばと思える。






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同じうれひ

2017-12-12 04:19:00 | 短歌





余と君の 間に生ふる のいばらの とげにもおぼゆ 同じうれひを





*これはかのじょの歌の本歌取りですね。元歌はこれでした。一応押さえておきましょう。


余と君の 間に咲ける 白百合の 面にぞ見る 君の痛みを


この歌は、ツイッターでの、「返歌への誘い」においてわたしが詠んだ歌でした。かのじょの詠んだ歌をひとつあげて、それに対する返歌を請うという試みです。返してくれたのは獅子や大火やわたしくらいでしたがね、隠れたところでは、ほかの誰かも何かを詠んでくれていたと思っています。

それはそれとして、表題の歌はわたしが返したものですが、そのもとの歌はこれでした。


高光る 日のしたたりの 胸に映え さいはひに似し 孤独の痛み


たかそらに光る日の光がしたたり、心の栄え、幸福にも似たこの孤独の痛みを照らし出す。

情感はわかるでしょう。あなたがたにもこういうことがありませんか。誰にもわかってもらえない孤独を抱いている。だが、それがわたし自身であるということが本当に幸せだ当実感が。

感じたことのない人はいまだに猿の段階にいる人ですよ。孤独のなかに魂をつけこまなくては、人間は人間にはなれない。いまだ、動物的なエゴの闇の中にいて、自分ばかり得させようとずるいことばかりしている。

そういう人には、この孤独の幸福がわからないのです。大勢の中にいて、その闇に溶けていないと不安でたまらないのです。

この歌に返して、わたしは表題の歌でこう言ったのでした。

わたしとあなたの間に映えているのいばらの棘は、あなたとわたしを孤独にわけてしまうが、その棘の中にこそ、あなたもわたしも同じ痛みを感じていることを感じる。

難しくはないでしょう。こういう意趣を本歌取りでやるというのがおもしろい。孤独でありながら、深いところでつながっているということがわかるような気がします。

自分自身であるがゆえの孤独というのは、限りなく幸福に近いものだ。それがわかってこそ、他者とも響きあえる。

あなたも孤独なのか。わたしもそうなのだと。






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