ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

玉のいはやど

2017-12-11 04:18:38 | 短歌





奥山の 玉のいはやど はるかにて 眠る月夜の 夢も知られず





*月の岩戸ならぬ、玉の岩戸、というのを考えたのは、エラキスです。柘榴とも名乗っていますがね。彼は今、出版の準備をしてくれている。その最中で、こういうことばを思いついたらしい。短編集の巻頭詩に採用しています。

かのじょが眠っている月の岩戸も含め、わたしたちがこの媒体を世間から守るために閉じこもっているこの家全体をも意味するらしい。

ここは大変な世界ですから。わたしたちもかのじょのように、自分を守るために、まるで引きこもりのように閉じこもっているのです。

引きこもりはあまりいいことではありませんがね、しかし今の時代では、そうなるしかない人間というのがいる。外では、あまりに馬鹿がひどいことをしているからです。

自分のまことでまじめに生きようとしている人間を、ことさらにいじめてくる馬鹿が相当にたくさんいるのです。きれいに生きようとするのが憎いのです。嫌なのです。自分はとても汚いことを考えたり、したりしているからです。

それでも、嘘で見栄えを整えれば、自分もきれいでよい人間になれるのだと、馬鹿はそういうことにしたいのだ。嘘の方が正しくて、かっこいいのだということにしたいのだ。

それだけでずっとやってきたのですがね、まさか人間の感性が進化して、嘘をすべてみぬけるようになるとは思わなかった。

本当の姿がばれてしまえば、馬鹿は終わりです。

もう誰も噓をつけなくなる。嘘が通用しなくなれば、馬鹿はもう何もできない。みんなが騙されてくれなくなれば、馬鹿には何もないのです。

もうすぐ今年も終わりますね。進化した感性を通して、あなたがたもいろいろなものの本当の姿を見たでしょう。そして人類世界は変わり始めている。

消えてしまった月の夢はもうないが。新たな救いは見え始めてきている。人類自身が、自分を救うべく、目覚め始めている。

来年はもっとすごい年になるでしょう。






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野苺の実

2017-12-10 04:19:45 | 短歌





花心 野苺の実を 口にそへ しばし夢にも 君をとどめむ





*これはインスタグラムで詠った歌ですね。確か遠い国のお菓子職人さんに贈った歌です。なにがどうなっているかわからぬが、その歌の意は向こうにも届いているらしい。

まあ、今は別に細かくは追及しません。それはそれとして。インスタグラムでは、わたしたちの感覚に引っかかる美しいものを作っている人を見つけてフォローしています。そして気に入った作品には歌を差し上げている。

かなりよろこんでもらえてはいるようです。

冒頭の歌は、その外国のお菓子職人さんが作った、とてもきれいなケーキに寄せて贈ったものでした。苺色の宝石のようなケーキです。どうやって食べたらいいか迷うほど見事なので、歌を送ってみました。

花心、という言葉がなぜか浮かんできたので、それから歌を引き抜いてみた感じです。花心というのは、散りやすい花のように、移ろいやすい心という意味です。

花のように移ろいやすい心を持っているあなた。野苺の赤い実をあなたの口に添えて、しばし、夢の中にも、あなたをわたしのもとにとどめよう。

麗しいでしょう。恋などできないわたしたちだが、恋の思いをこのように美しく詠むことはできる。あなたがたはその恋ができるものたちなのだが、時にその恋に溺れて自分がわからなくなる。そのあなたがたを、わたしたちは向こう岸から見ている。

美しいときも怖いときもあるが、きれいなものにしてやりたいという、愛が湧く。

それほどに、恋をすることができる霊魂というのは、かわいらしいのだ。

歌を送った職人さんにはどうやら恋人がいるらしい。インスタで彼の写真なども見るのだが、女性に愛されている幸せを感じる表情をしています。

愛し愛される女性がいることは、男性にとってもこの上ない幸せであるようです。






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ばかさかげん

2017-12-09 04:19:23 | 短歌





たかぶりの ばかさかげんを しりつつも いまさらもどる こともできぬか





*いわゆる大火節は、あまりここでは採用しないことにしているのですが、これはいいと思ったのであげてみました。

すごいところは、こういうのを、10秒くらいですらすらと詠んでいることです。話し言葉がそのまま歌になったかのようだ。みんなひらがななのは、彼の頭から出てきてそのままをどんと出したからです。

推敲もしていない。わたしの考えからすると、推敲は必要ないが、漢字に換えるべきところは換えたほうがいいと思いますね。やってみましょう。

たかぶりの 馬鹿さ加減を 知りつつも 今さら戻る こともできぬか

これで少し痛い感じになりました。きつい人にお説教を食らっている感じがしますね。

傲慢というものが、いかに愚かなことであるか、知っていても、今更悔いて元に戻ることはできないのか。

要するに、金があれば何でもできると思い込んで、傲慢に落ち、好きなことばかりやってきたら、もろにそれが自分に返って来て、それがいかに馬鹿なことか、やっとわかった。だが馬鹿は傲慢をかましてやったことにこだわって、今更その仮面を外すこともできず、いまだに偉そうにしている。それでよけいに大変なことになる。

傲慢が愚かなことだとわかったら、その態度をやめて、みなに謝り、本当の自分にふさわしい謙虚な態度に戻るのがいいのだが。そんなことはとっくにわかっているだろうが。

できないのが馬鹿なのです。

こういうことを、すらすら詠めるのがすばらしいですね。ツイッターでの大火節は、あれらはほとんど即興でやっているのですよ。頭から出てきたと思ったらすぐにツイートしているのです。おもしろいのが次々と出てくるでしょう。あなたがたのほうからは、またかよ、などという反応がきつつも、吹きだして笑っている声も聞こえます。

実にすばらしい。彼のこの魅力に参っている人は多いですよ。

こういう彼の、絶対的自己肯定感がここちよいのです。彼のよどみない口調に浸っていると、自分も自然に自分でいい感じがしてくる。

そして本当に、自然に自分で笑っているのがここちよい。

こういう彼の自然な心が呼び水になって、きっとあなたがたもだんだん本当の自分に戻っていくことでしょう。






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あかし

2017-12-08 04:18:58 | 短歌





蟷螂の 斧はおのれの 生き方の あかしとぞ見て 蟷螂を生く





*「蟷螂の」を「おのれ」を導く序詞のように使った例ですね。ここではよくやっていますが、枕詞的に使ってると、やがてこれも枕詞になってくるでしょう。「おのれ」「われ」「おのが身」「わが身」「身」と、自分を表すことばはたくさんあるが、文字数によって使い分け、いろいろ作ってみましょう。

この時代の最も重要なテーマは、なにより「自分」ですから。いくらも詠んでいるうちにこういう枕詞ができても不思議ではありません。歌は生きている。新しいものはいつでも生み出せます。

「にきしねの」は「ゑのこ」とか「ゑぬ」にかかる枕詞だと、設定しましたが、かなり使っている人はいるようだ。犬に対する情愛などを詠みたいとき、便利らしい。「にきしね」というのが実にやわらかくて、犬の毛並みのようですから、歌の情感も深まります。

「白飴の」も「月」とか「甘き」にかかる枕詞になっていきそうですね。いくらでもよいものが生まれそうだ。この時代は、人類の自分が目覚めて、爆発的に進歩する時代です。いくらでもおもしろいことはやってみましょう。

蟷螂の斧は、自分自身の生き方の証と見て、蟷螂は蟷螂を生きるのだ。

自分には歌を詠む心がある。これは自分の生き方の証と見て、わたしはわたしらしい自分を生きるのだ。

いいですね。ぜひやってみましょう。歌を詠むのは楽しいでしょう。自分の感じ方、自分の人生、恋、切なさ、苦しさ、美しく詠むことができる。ひとくさりの歌がよければ、永遠に伝わっていく可能性もある。

その歌が、後々の人の人生を照らすこともある。わが身というものは、なんといいものだろう。

いろいろなことをやってみてください。楽しいでしょう。自分で、本当の自分を生きるということの楽しさを、存分にやってみましょう。






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あはゆき

2017-12-07 04:18:43 | 短歌





あはゆきを 玉となしては 月をすひ ちひさき飴を こころみしかな





*これはスピカの歌です。なかなかに幻想的でかわいらしい。彼はこういうのが得意です。その世界はかのじょのつむぐ世界にも似ていて、それゆえにか、かのじょをなつかしむ人には、スピカが好きな人も多いようですよ。

淡雪を玉にまるめては、それに月光を吸い込んで、小さな救いの飴を作ることを、試みたことだ。

「こころみる」などの文字数の多い動詞は難しいが、みごとにこなしています。

詩的で意味がつかみにくいが、要するに、淡雪のようにはかないとも思える方法で、甘い救いを打ち出し、それを月光のようなやさしさで表現したということでしょう。なかなかにうがっている。確かにそのとおりのことをあの人はした。人類の全部を救うのだという甘い夢を見て、そのためにあらゆる試みをしていた。

その夢はついえたかに見えるが。しかし本当はそうではない。ただその救いが、永遠にちかいほど遠い未来にのびただけなのです。

かのじょがこの世界で表現したあの日記には、ほんとうに、全ての生類を救える秘密が書かれているからです。あれを一度でも読んだことがある人は、たとえ今は認めたくなくても、自分自身の救いの種を自分の中に孕んだことになるのです。

本当の自分というものがどういうものであるか、あれをよめばわかるからです。

本当に、あまりにも大変なことをしてくれた。かのじょはただ、人を救いたいという思いだけで、あの日記を書いたのだが。それはわたしたちの予想すら超えて広がっている。もう永遠に会えなくなったということの現実の意味が、より濃くなってあなた方の前に落とされる。

かのじょが救ったのは人間だけではない。あの日記がこの世界に生まれただけで、地球上のすべての存在を救ったことになったのです。実際、それができるということが、わかったのです。

人類は悪に迷い、あまりにも長い闇の日々を送ったが。これから自己存在として伸びてくる存在は、今の人類ほどには悪に苦しまずに済むでしょう。過ちの実例が実にたくさんできましたし、かのじょのなした日記がすべてを教えてくれているからです。

ここまでのことをしてくれたら、もうかのじょは地球にいることはできない。なぜならかのじょがここにいたら、地球上のすべての存在がかのじょにお礼をしなければならないからです。そんなことになったら大変なことになる。

ゆえにかのじょは、もう二度とここには来れない。

こんなことにならずにすむ方法はあったのではないかと、思ってもせんないのだが、思わずにいられません。






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しらまゆみ

2017-12-06 04:19:46 | 短歌





しらまゆみ ひきつる糸を かきたちて 欠けし月夜の いたみこそ知れ





*「しらまゆみ(白真弓)」は「春」や「い」や「ひ」をふくむ言葉にかかる枕詞です。辞書をくって魅力的な枕詞を見つけると、使ってみたくなりますね。活用してください。ちなみに白真弓とは、白木のままのマユミの木で作った弓のことです。

「かき(掻き)」は動詞について語彙を強調する語です。語調を整えるためによく使われます。「かき結ぶ」とか「かき抱く」なんてのがそうですね。今の言葉にも残っています。語感もいいので歌が引き立つ。活用しましょう。

枕詞は普通訳しませんが、この歌では意味を持たせています。

白木の真弓でつくった弓に、引いた糸を断って、欠けてしまったあの、月にたとえられる人の、心の痛みを知ることだ。

こそ~已然形の係り結びですが、現代の語感では命令形に感じますが、意は終止形です。ここは注意しておきましょう。よくまちがいます。

詳しく説明しなくてもわかるでしょうが、あなたがたは、きれいだというだけであの人に弓をひいて攻撃し続けた。あの人は何も知らないようで、多くを知っていました。周りの人の目には気付いていた。だが、すべてをわかってしまうと、生きるのが苦しくなりすぎるので、感覚を閉じ、あまりわからないようにしていたのです。

それでも、世間のそしりとはとどくものだ。何を一生懸命頑張っても、決して周囲は認めてはくれない。まじめにいいことをがんばっているのに、無視され続けている。どういうことになっているかくらい、賢い人ならわかります。

何も知らないふりをしつつも、心に受け続けている傷は深かった。半身を砕かれるほど、痛かった。

だからあの人は、この人生から退いたとたんに倒れたのです。

かのじょがどんなに苦しかったかは、あなたがたも、同じ思いをすればわかるでしょう。一度、万人の人に嫌われて、悪口を言われてごらんなさい。何をがんばっても認めてもらえない、寒い人生を歩んでごらんなさい。その上で、すべてのために働いてごらんなさい。

白木の弓などというと、なんとなく素人をにおわせる。

何もわかっていない人、という意味も、乗せられるような気がしますね。






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寒風

2017-12-05 04:20:28 | 短歌





くれなゐの さうび散り果て 秋はゆき 寒風は吹く 灰色の空





*さびしそうな歌ですね。今現在、ツイッターでは、すぴかの締めの歌5首が続いていますが、これはそのうちのひとつです。

ツイッターでは、仲間が何かを思いつくたびに、いろんなことをやっているのです。

これを書いているのは11月11日です。ブログの原稿はだいたい一か月くらいずれがありますが、今、読者の皆さんにはとても冷たい逆風が吹いている。それを感じたすぴかが、一連の歌を詠みました。逃げてはならない難に飛び込んでいく人のための、心づけの歌とでも言いましょうか。ほかにはこんなのがありましたね。


かぞいろにもらひし糸をたよりつつうすき縁に頭をさげてゆく

辛抱をせねば生きてはゆけぬぞと親のをしへをもだしつつ聞く    


馬鹿なことをして自分の人生を良い方向に回そうとしたが、それが一斉にばれて、実にまずいことになってしまった。もうこれまでと同じではいられない。生きていくなら、みんなに頭を下げていくことだと、親に教えられている。

親ならばこそ、言ってくれることを言ってくれるのです。実際、馬鹿にはこういう生き方しか選択肢はない。人様みなに頭を下げて、勉強させてもらいながら、小さい人間としてまっとうに生きていくしかないのです。

しかし、ずるで人生を得してきた人間には難しいでしょう。中にはとても高いステータスを得ていた人もいますから、そういう人は傲慢に人を馬鹿にしてきた。いきなり、こういう地味な人生に下りていくことができるかどうか。

今まで馬鹿にしていた人間に、頭を下げることができるかどうか。

できるできないは別として、やれねば、落ちる地獄は決まっているのです。

紅い薔薇は散り果てて、秋はすぎ、寒い風が吹いて来る、空は灰色だ。

要するに、愚か者の栄華の時代は終わり、冬の暗い時代がやってくる、という意味です。

そういうことになっている人はたくさんいるでしょう。

傲慢と馬鹿のツケを、これからすべて払っていかねばなりません。醜いプライドは捨て、人に頭を下げてゆきなさい。






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ひそみたき百合

2017-12-04 04:20:23 | 短歌





おくやまに 石切る人の その夜の 深き眠りに ひそみたき百合





*今日はかのじょの作品からとりましょう。これはかのじょの詠んだ歌の中でも人気が高いものです。好きな人がたくさんいる。

奥山で石を切っている人の、疲れ果てて眠るその夜の、深き眠りのなかに、ひっそりと咲きたい百合。

美しいというより、何と可憐な歌だ。これが男性だとは思えないでしょう。男性も女性に生まれてくるとかなりかわいらしくなるが、ここまでしおらしくなれるかと言えば、疑問がありますね。

男性も勉強のために時々女性に生まれて来るときがあるのですが、そういう女性はかなり気が強くなるものです。おとなしく男に従いたくないという気持ちがある。かなり何とかはするのですが。

だがかのじょときたらそういう男の気概みたいなものも、どこへ行ったのかと思うくらい、可憐にかわいい歌を詠ってくれるのだ。

自分を小さな百合にして、疲れ果てて眠っている男の夢の中にひっそりと隠れてあげたいなどと言うことは、女性でもあまり考えませんよ。かわいいですね。

こういう歌を詠える人が、驕慢などであるはずはない。かまととぶってこんな感じに詠うこともありますがね、そういうのはどんなにうまく詠ってもどこか胡散臭い。馬鹿なら騙されるでしょうが、感性の進化した人間はだませません。

これは実に、マジ、というものです。

マジという言葉は近現代のスラングですが、真面目、ということばから発して、真剣、という意味になり、それから発展して、とんでもない本当、という感じになってきている。信じられないけどこれマジよ、という感じで。

嘘というものが、大きくなりすぎた時代だからでしょう。ただただまじめだということが、あまりにも大変なものになってしまっていたのです。

一生懸命まじめに生きているだけなのに、世間の人間が大勢固まって総攻撃を加える。

それほど人間は、嘘ばかりついていた。そしてそれに疲れ果てていた。

その夢のような人生の中で、これは美しいというひともとの真実の百合を見つけた時。それはたしかに、目立たないようにかたすみにひそんでいたのだが。

愚かな石工の群れは狂ったように百合に襲い掛かったのです。

そんなかわいらしい本当の愛が、たまらなく怖かったのです。






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たまがしは

2017-12-03 04:19:12 | 短歌





たまがしは あかぬちとせの 見ぬふりの 戸につひにさす やくそくのかぎ 





*「たまがしは」は「玉堅磐」で、水底の硬い岩のことです。ふつう「あく」にかかるまくらこことばは「たまくしげ」ですが、もちろんこれは枕詞ではありません。

水底の硬い岩のように、絶対に開かない、という意味です。

水底の硬い岩のように開かず、千年もの間見ぬふりをしてきた戸に、とうとう約束の鍵をさす。

こういう意味になりますね。「約束の鍵」は、かのじょの「貝の琴」の中にある詩からとりました。あまり説明せずとも意味はわかるでしょうが、それでも細かく解説するのがここでのやり方です。

それは遠い昔に自分がなしたこと、忘却の箱の中にとじこめてある、自分自身の記憶を開く鍵なのです。

だれにも、忘れたいと思っていることがある。遠い過去に自分がやってしまった、あまりにも愚かなことの記憶です。

失敗をしたことのない人などいない。それに対する正しい態度は、ちゃんと反省して、迷惑をかけた人に謝って、二度としないと誓い、改めていくことなのですが。

それができずに、自分が悪いのではないと決め込み、誰かのせいにして逃げてしまった人もいるのです。あんなことをしたのも、だれかが自分にいやなことをしたからだとか、あんな人がいたからだとか。自分が嫌なものになるのが嫌なばかりにこじつけて逃げてしまった。

そういう人は、未だに、苦しい自分の記憶が何の改変もされずに、自分の奥の記憶の箱に横たわっているのです。

いつまでも逃げているわけにはいかない。自分のなしたことは必ず自分に返ってくるからです。早い目にその箱は開けて、正しい態度でなんとかしていくのがいいのだが。それができない人は、言い訳にもならないことをやりつのり、どんどん箱の中にはいる嫌な記憶が増えていく。

約束の鍵は重くなる。

なぜ「約束」なのか。それはいずれ、必ず開けなければならない箱だからです。

もうわかりますね。とうとう約束の鍵が、決して見ようとしなかった自分の箱の戸にさされ、それが開いたのです。

最後まで逃げ続けた人間は、開いた箱の中からあふれ出た大水に流され、どこへともなく去っていくのです。






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その背

2017-12-02 04:19:05 | 短歌





白玉の わがこかなしや ともにゐて 親はいやぢゃと いふその背かな





*俳句では、時に「背く子」というテーマを詠んでいますが、今かのじょの長男は親に反抗して閉じこもっています。

いろいろな事情はあるのですがね、要するに、下の子はそうでもなかったのだが、一番上の子は、かのじょの子であるというだけで、かなりのいじめを受けたことがあるのです。

幼い頃は明るいおしゃべりな子だったのだが、たぐいまれな美女が産んだ子供だというだけで、いやなことをたくさん経験したのです。だから年たけて来ると、とても暗い表情をするようになった。

かのじょはそれに気づいていましたが、どうすることもできませんでした。親としてできることはしてやりたかったが、救済の方が忙しかったのです。

もうこの世に天使はほとんどひとりしかいなかった。国のことも人類のことも、本気で考えているものは、おそらく自分一人しかいない。やらないわけにはいかなかった。

閉じていく子供の心を、見てやることもできなかったのです。

それでもできることはしてやっていたのだが。親の心というのは子供には通じがたいものだ。いや、通じないほうがいい場合が多いのだが。

親にしばられる子供というものもつらいものだ。反抗したいのなら反抗させてやった方がいい。

引きこもる気持ちもわかる。自分もまたそうだった。外の世間の風は冷たいなどというレベルではなかった。人をみれば残酷に食うてやろうとする魔があふれるほどいたのだ。

逃げ場所を守ってやろう。そして、我が子がまっとうに生きていける世界をつくってやろう。

それが親の気持ちでした。なんでもない。もうそれしかできなかったのです。

かのじょが考えていたことはわたしたちがひきついでいる。かのじょから生まれてきてくれて、寂しい人生を明るくしてくれた子供たちのために、この馬鹿げた世界を変えてやろう。

そのためにも、わたしたちは毎日のように、あらゆることをやっているのです。






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