比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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天平の時代・・・彩の国を突き抜けたハイウエイ・・・東山道武蔵路を探る

2015-12-14 | 旧街道・峠道・旧宿場
12月のはじめ、坂戸市石井の勝呂(すぐろ)公民館で「古代東山道・・・武蔵路を探る」のパネル展示があると新聞で知って寄ってみました。
昔むかし7世紀の初めごろから日本は古墳時代から中央集権型の飛鳥のヤマト王朝になります。やがて乙巳(いっし)の変(645年 大化の改新)で中央集権化がさらに進化して、現在の奈良市に平城京を造営、律令(法律や政令)の制定、行政区画として五畿七道の制定、国府、郡衙を置き、都と地方とをつなぐ官道(官吏の往還、租庸調の徴税、物流、軍道としての路)が整備されます。

ここ埼玉はその平城京時代、東山道に組み込まれ、群馬県から現在の埼玉北西部を通過して武蔵国府(現在の府中市)に真っ直ぐにハイウエイのように東山道武蔵路が整備されていたといわれます。
東山道・・・滋賀県、岐阜県、神坂峠を越えて長野県へ、碓氷峠を越えて群馬県へ、そこから栃木県、、茨城県、福島県、宮城県、山形県、岩手県にいたる広大な行政区域、さらに武蔵国(埼玉県。東京都、神奈川県の一部)も東山道の反中に含まれました。東山道に組み込まれた武蔵国は官道としても便宜が悪く8世紀の後半に東海道に所属替えされました。
東山道武蔵路・・・群馬県の新田郡あたりから東北に向かう道と分かれ南下して武蔵国府(府中市)に向う道。


さて、東山道武蔵路と坂戸市勝呂郷あたりの話しです。
東山道武蔵路は、その痕跡を地上に残さず消えていましたが、1975年ごろから東京都府中市、国分寺市、所沢市、坂戸市で発掘調査によりその痕跡が発見され、古代の道が次第に明らかになってきたそうです。
専門家ではないのでよくわかりません。展示会といってもパンフレットと説明パネル数枚だけです。学芸員がいて説明してくれるわけではありません。パンフレットを持ち帰りにわか勉強。
ここに書いているのはパンフレットのコピペです。

国分寺市の発掘調査では側溝を持つ幅12mの直線道路が南北に340mにわたり発掘され、低湿地では組粗朶工法と呼ばれる粗朶を置いて礫を敷いた工法が見られ、切通しの工事も見られました。

坂戸市では2010年、2011年に大がかりな発掘調査が塚越地区で行われ道幅11mの道路遺構が発掘されました。道が発掘されるとその周辺から住居跡などが発掘され、生活用品(土師器、須恵器)などの遺物が出土されます。わたしの住む村にも勝呂廃寺の瓦を焼いたという赤沼古代瓦窯跡が1993年に発掘されています。

よくワカリマセン・・・ただ昔むかしに思いを馳せてイメージの海に漂うだけです。

坂戸市石井の勝呂公民館。

勝呂公民館1階廊下で東山道武蔵路の説明パネル展示、出土品展示。

12月17日までです。


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