カレーライス
なぜか父は、決してカレーライスを食べなかった。
この日の夕食もカレーで、母、兄、それに私の前には
カレーが置かれていた。なのに、父の前だけは魚だった。
人の心を推し量ることが出来ようもない小学生の私は、
つい、父をなじるように言ってしまった。
「父さんはどうしてカレーを食べないの?
みんなと同じものを食べないなんて、わがままなんじゃない」
だが、父は何も言わなかった。
ただ、戸惑った表情の母に少しだけカレーを持ってこさせ、
そして黙って、そのカレーを食べ始めた。それも箸で。
重苦しいような雰囲気──いたたまれなくなった私は、
スプーンを取りに行き、父の前に置いた。
けれど、父がスプーンを手にすることはなかった。
母に先立たれた父は、山口県・小野田の実家で独り暮らしとなった。
そんな父の元へ、私は月に一度、お弁当を作って福岡から通ったのである。
いつも草取りをしながら私の来るのを待っていた父は、
私の顔を見ると「よいしょ」と腰を上げ、
にこにこと手を振って迎えてくれたものだ。
しかし、そうしたことも半年ほどのことだった。
兄夫婦が「父の面倒はオレが見よう」と言って戻ってきたのである。
普通だと、喜ばしいことに違いないのだが、
残念なことに兄夫婦との同居はうまくいかなかった。
おっとりとした性格の父に対し、兄は何かと口うるさい。
2人のそりは合うはずもなかった。
私自身も兄に対しては父と同じような思いを抱いていたから、
父に申し訳ないと思いつつも小野田通いの足も遠のいていった。
そんな父の楽しみは、やはり母の墓参りだったようだ。
2キロの道のりを週に1度、自転車で通っていた。
その霊園の入り口には公衆電話があり、
墓参りを済ませた父は、その公衆電話から
いつも私に電話してきたのだった。
会話は「今朝は冷え込んだな」「庭の菊を仏壇に供えたよ」とか、
ありきたりのものではあったが、父の声に私の心は安らいだ。
そして、「元気でな」「じゃあね」で終えるのが常だった。
そんな父が、体調を崩した私を見舞いに来てくれたことがある。
夫は恐縮しながらも喜んで、手料理をふるまおうと張り切っていた。
しばらくすると、何とカレーライスの匂いがするではないか。
「しまった」夫には、
父はカレーを食べないのだということを話していなかった。
「大変なことをしてしまった。どうしよう」混乱した。
ところがである。
「KEIKOもこっちにきて食べんかい」襖の向こうから父が呼ぶ。
「えっ」と訝しげに襖を開けると、
父が「うまいぞ。よくできとる」とスプーンを使って
カレーを食べているではないか。
私はさらに驚き、混乱し、夫のカレーが喉を通らなかった。
父は4年間の、あの過酷なシベリア抑留を経験していたのだ。
カレーライスを決して食べようとしなかったのはそのせいだった。
収容所の食事は、薄茶色のスープに数個の豆が入っているものばかり。
それをスプーンで掬って食べていたそうだ。
カレーを見るとシベリアを、そして亡くなった仲間を思い出す。
だから「見たくも食べたくもなかった」のである。
「恋しいな お父さん。
あの霊園の公衆電話に電話してみようかな。
カレーライスは食べていますか。
もう一度夫のカレーライスを食べに来ませんか」