被爆者健康手帳をいただいている。
昭和20年8月9日午前11時2分。
爆心地から3.5㌔、長崎市新地町、あの中華街のある辺りで
被爆した一人である。
だが、3歳になったばかりであり、
原爆投下時の記憶はほとんどない。
わずかに何かがぴかっと光り、ドーンと大きな音がしたな、
と言った程度の、それもうっすらとした記憶である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/0f/f4093fbb40ce4478c1c0a69f39893913.jpg)
当家の墓は、原爆爆心地に近い浦上地区にあり、
両親、兄、姉たち家族が一緒に眠っている。
小学低学年だった頃、祖母に連れられて、よく墓掃除へ行った。
結構広く立派な墓地だった。
おそらく、欧米の映画でよく見かける鉄柵を巡らした、
あのようなものだったのではないかと思う。
なぜなら、墓掃除へ行った際、石柱に埋め込まれた
ヤリみたいな鉄の棒がぐにゃりと曲がって
何本も残っていたからである。
「こん、ひん曲がった鉄の棒は、ピカドンのせいたい」
祖母からそう聞かされ、そしてぐにゃりと曲がった鉄の棒を見て、
原爆というものが、鉄の棒をこんなにも曲げてしまうほど
力が強いものだと子供ながらに初めて知った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/da/007c51db0bbc689340f4e2ac3f05d023.jpg)
実は爆心地近くには母の妹家族が住んでいた。
母は長男を連れ、その消息を求めて爆心地に入ったのだが、
1人として残っていなかった。
近くを浦上川が流れている。
投下直後、多くの被爆者がここに水を求めてやってきた川である。
今はそんなことも知らぬげに穏やかに流れている。
長崎に原爆が投下されて77年。
今朝のテレビニュースを見ていると、
爆心地に建立されている平和祈念像、
それに浦上天主堂のミサの様子が映し出されていた。
教会の鐘の音は、かすかであろうが墓地まで届く。
11時2分、ここ福岡の地から平和への祈りを捧げる。
(昨年書いたものを加筆・修正したものです)