Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

恋しい①    AKIKOの場合

2021年06月13日 16時37分12秒 | ショートショートSTORY

         30本のバラ


つけっ放しにしていたラジオから加藤登紀子の「百万本のバラ」が、
夕食の支度をするキッチンのカタコトという音に紛れ込んでくる。
月日とともに流れ薄れていく記憶が、
時に何かに触発され引き戻されることがあるように、
この歌は、やはり亡き夫を思い出させる。

        

出会って以来、彼は私の誕生日には欠かさずバラの花束を贈ってくれた。
それも30本も。貧しい絵描きが、小さな家とキャンパスを売り払い、
街中のバラをすべて買い、恋する女優に贈った100万本にはとても及ばないが、
その30本は、彼の思いのたけが込められているはず、
そう信じ素直にうれしかった。
「誕生日は忘れないで花束を贈るが、
          その女性の年齢は忘れているのを紳士という」
なんて、臆面もなく気障な言葉を添え、
深紅の時もあれば、柔らかなピンクの時もあり……
結婚してからもつましい暮らしではあったが、
それはこの世を去るまで続いた。

彼と別れてもう15年になる。
正月早々のあの日、私は自分の人生も一緒に終わってしまったと思った。
頼りにしていた人を失くし、たった一人で生きていく。
これからの自分の人生はもう、未来も、希望もない、
モノクロの世界に入ってしまったようにさえ感じた。
周囲の慰めの言葉も心には届かず、空しく響くだけだった。
心は閉じていくばかりで、誰とも話したくなくなり、
気遣ってくれる母さえ寄せ付けない鬱の状態が数カ月も続いた。

なぜ、CHIEKOのことを思い出したのか、今でも判らないが、
ふと思い立って、彼女の住む海辺の街を訪ねた。
CHIEKOは離婚し、難病の娘を10年以上も
介護しながら細々と暮らしている。
苦労しているはずなのに、久しぶりに会った彼女はまったく違っていた。
何と明るく屈託がないことか。
その生活すら楽しんでいるように思えるほどであった。
そんな彼女を見て、私の閉ざされていた心が、
かすかではあったが開いていったのである。
CHIEKOには、今まで素直に話せなかった気持ちを包み隠さず話せたし、
虚ろだった私の心は高まっていき、ついにはまさに臆面もなく号泣したのである。
彼女は静かに耳を傾けてくれ、頷いているだけだった。
それだけでよかった。
吐き出した言葉と涙の量だけ、心が軽くなっていった。

        

帰途、海沿いの高台に登り、落陽を眺めた。
20分ほど佇むうちに、海が静かに太陽を飲み込んでいった。
自然の織り成す荘厳さが心を打つ。
人生の黄昏も独りで乗り切れるかもしれない。
そんな思いが、かすかではあったが湧き始めたのである。



    偶然、花屋の前を通りかかると、見事な白いバラが……。
    惹かれるように見入ってしまった。
    すると、ガラスケースに彼のニヤリとした顔。
    大変、大変! 今日は彼と別れた記念の日だった。
   「ごめんなさい」──ありったけの白バラを抱え、家路を急いだ。
   「どう 私もしっかり生きているでしょう」



男の居場所

2021年06月11日 14時30分01秒 | エッセイ

      川沿いの道路に軽乗用車がポツンと止めてある。
      どんよりと曇った日の、陽が傾いた5時頃。
      近づいてみると、中年というにはやや老けていて、
      それでも高齢というには気の毒と思える男性が、
      シートをやや倒し本を読んでいる。

           
      
      窓は前後左右すべて開け放し、緩やかな川風が通り抜ける。
      おそらくFMラジオからであろう、
      ストリングスがかすかに聞こえる。
      右手指先のタバコの煙は薄い。
      一人だけの、何の煩わしさもない世界……
      この人にとり、これは喜びなのか、悲しさなのか。

        

      「男の居場所」(酒井光雄著)という本がある。
      この本は──人生の終盤だと思っていた「定年後」が、
      実は人生の後半戦であり、まだまだ元気で楽しく過ごしたいと
      思っているのに、どうすればよいか分かず、
      自宅で何をするでもなく、毎日だらだらと過ごす。
      そんな多くの「定年後」の男たちに、
      居心地の良い最適な時間を過ごすには、
      どうすればよいのか筆者が自身の体験や理論に
      基づき語りかけている。

        

      「定年後」をどう過ごすか。
      これは思った以上に難しい。
      私自身が痛切に感じる。
      今のコロナによる自粛生活にしてもそうだ。
      つくづく思い知らされるのだが、
      のんべんだらりと過ごす夫に妻は三食を用意するなど、
      何だかだと手のかかる夫の存在にうんざりし、
      苛立ちから粗大ごみ扱いしてしまうことさえある。
      かといって、「冷たいではないか」と
      その所業を責めるわけにもいかない。
      その大変さ、苛立ちは、なるほどよく分かる。


      コロナの自粛生活にしてこれだ。
      「人生100年時代」とあれば、「定年後」の生活は
      ますます長くなっていく。自粛生活の比であるまい。
      そう考えると、我ら男は、「定年後」をいかに過ごすか、
      よくよく考え、努力しなければならない。


      随分前になるが、「オトコの居場所」という
      テレビドラマもあった。
      会社では〝女の園〟である秘書課で
      女性たちに囲まれ悪戦苦闘し、
      家はといえば妻、妻の母、それに娘と女性ばかり。
      居場所のないオトコのこもごもを
      コメディー風にしたものだった。

      「男の居場所」と「オトコの居場所」──
      描かれている中身は違ってはいるが、
      男=オトコにとっては、
      どちらも何とも身につまされる話である。

    
         あの車の男性……彼はどんな理由があって、
         あそこで本を読んでいるのだろうか。



切なさ

2021年06月06日 10時14分37秒 | エッセイ

Andy Williams,Paul Anka, Matt Monro, Engelbert Humperdinck, Elvis Presley-Best Of Oldies But Goodies

     なぜ、こうも切なくさせられるのだろう。
     左だけのイヤホンから1950、60、70年代の、
     いわゆるオールディーズが流れ込んでくる。
     エルビス・プレスリー、アンディ・ウィリアムス、
     ポール・アンカ、マット・モンロー、
     そしてエンゲベルト・フンパーディング……
     ただ聞き流しているのに、次第に切なさが募ってくる。
     曲名をすべて思い出せるわけではない。
     また、格別の思いのある曲があるわけでもない。
     たとえば好きな女性と一緒に聞いたなあ、といったような。
     ただ、身も心も生命力にあふれた、あの時代の
     自分自身のことを思い起こさせるだけである。
     50年、60年も昔、「ああ、そんな時代もあったな」。
 
         

     涙がマスクの中にしとしとと伝い落ちてくる。
     吉永小百合さんが女医役として主演している
     『いのちの停車場』を見ている。
     年老いた人、まだ社会の第一線で活躍できるはずの人、
     さらに本来なら前途洋々の子供……。
     こんな人たちが次々と去っていく。
     人にとって、どうしても避けることのできない死。
     そして、「自分の死のしまい方」に直面していくのである。
     苦しまず、人に迷惑もかけず死ねる。
     よく言うピンピンコロリが理想だと、誰もが思う。
     だが、「自分の死のしまい方」として、
     そのように終えることが出来る人はどれほどいようか。
     映画は、許されるはずもない自死、安楽死といった
     難しい問題にも言及する。

     オールディーズがオールディーズでなかった時代、
     このような映画には、おそらく見向きもしなかっただろう。
     それが今は、涙を流し続けながら見ているのである。



柚子風呂

2021年06月03日 17時16分38秒 | エッセイ

     友人の秋重南海男さんのエッセイ「柚子風呂」が、
     第36回「香・大賞」(香老舗 松栄堂主催)で、
     見事金賞に輝いた。
     彼は3年前、奥方に先立たれ、
     俗にいう〝おひとりさま〟。
     炊事、洗濯、掃除と「家事に助けられて」
     毎日を送っている。
     そんな日常の中で風呂に浮かぶ柚子の香り……。
    「こんなささいな事で一日が足りた」と感じるのである。
     日常を淡々と語る口調に引き込まれていく──。

     断りを得て、ここにご紹介したいと思う。
     また、YOU TUBEには、その朗読もアップされている。

第36回「香・大賞」金賞朗読

     家事に助けられて、毎日を送っている。
     炊事、洗濯、掃除がもしなかったらと思うと、ぞっとする。
     強がりで言っているのではない。
     七十六歳の一人暮らしの男の本音なのだ。
     三年前、妻に先立たれた時
    「ちゃんと生きてね、だらしなくしちゃだめよ」
     という妻の言葉に、途方に暮れながらも、
     そうしようと思った。
    「ちゃんと生きること」がなにを意味するかは
     今でも分からないが、家事に追われて日々を送るうちに、
     なんとなくこれでいいのだと思うようになった。
     特別なことは何もない、自分で食事を用意する。
     三度から二度にはなったが、朝食、夕食は手を抜かず、
     それなりの献立になっていると自負している。
     人と比較する必要はないのだ。
     洗濯も掃除も曜日を決めてやっている。
     洗濯は好きな方だが、この頃は天気を見てやるようにもなった。
     買い物にも冷蔵庫の中を確認して行くようになった。
     偏りのないメニューも考えるようになった。
     自慢できるようなことは何一つない、
     この当たり前の毎日を受け入れ、
     こころ穏やかに暮らす。

          

     八百屋できれいな柚子を見つけた。一個六十円、五個買った。
     今日は風呂を掃除する日だ。特に念入りに排水溝まで洗った。
     まだ陽の残るうちから、新しいお湯を張り、柚子を浮かべた。
     これだけでも何か心が躍る。
     お湯の中で柚子を泳がせると、
     柚子の踊りに合せて特有の香気がたつ。
     香りが肌にやさしく纏わりつく。
     こんなささいな事で今日の一日が足りたような気がする。
     今年はコロナ、コロナで緊張と不安の中に日々が流れ、
     マスクのせいばかりではない息苦しさに身を潜めた。
     柚子風呂につかりながら、
     世間がどうあろうとも、世界がどうあろうとも、
    「俺もちゃんと生きているぞ」
     ここちよい湯の中で手足を伸ばした。