以前、図書館の中で大声で電話をしていて注意をされたら愉快な言い訳(「向こうからかかってきたんだ」=悪いのは自分ではない)をしていた人のことは書きましたが、そのあとも愉快な人に次々出会えます。
図書館にはパソコンで蔵書検索ができるコーナーがありますが、先日行った小さな図書館ではパソコンが2台だけ設置されていました。で、そこでのんびりと寛いでいる(検索はしていない)人がいます。荷物はその隣の椅子に置いて。普段だったら放置ですが、たまたまそのときは検索をしたかったので「検索をしたいので、場所を空けてください」と言いました。すると「病院に行くまでここで待っているんです」 ……は? 「病院に行く」は「図書館の検索システム(の場所)を占領するための正当な理由」なのでしょうか? いや、まあ、それが正当な理由だとしても「自分の荷物も使ってもう一つの座席も占領する」理由にはならないと思います。そこで別に大声を出したわけではないのですが、すぐに職員がとんできて「休まれるのでしたら、こちらのベンチへどうぞ」とその人を誘導してくれました。検索そのものは20秒くらいですんだので、どちらかのパソコンが使えたらその人はそのまま病院に行くまでそこで過ごせたかもしれなかったのにね。
別の日の別の図書館。返却カウンターで「別に言い訳をしているわけではないけれど」と大声で言っている人がいます。ということは、苦しい言い訳をしているんですね。別に好奇心があったわけではありませんが、本を借りる手続きで隣に立ったので事情はすぐわかりました。返却期限を過ぎた本を「なくしたわけではない。探せば見つかることはわかっている。だから本は返せないけれど弁償はしない」と主張しているのです。たしかに“言い訳”ではありません。強弁です。本当に「探せば見つかる」のなら、探して持ってくればいいのです。話は簡単です。紛失したのかひどく破損したのかそれとも売り払ったのか、そのへんはわかりませんが、見苦しい(あるいは聞き苦しい)ことこの上ナシ。(実際に見苦しい風体ではありましたが)
図書館に限らず、日本中の「受付」で、こんな「愉快な言い訳」がきっと大量発生しているのでしょうね。笑顔で対応しなくちゃいけない職員は大変だわ。
【ただいま読書中】
『かかし』ロバート・ウェストール 著、 金原瑞人 訳、 福武書店、1987年、1300円(税別)
『ブラッカムの爆撃機』で“ど真ん中のストライク”を投げ込まれてしまったため、早速図書館で借りてきました。
サイモンは、寄宿学校でうんざりする生活を送っています。心の中に「悪魔」が住んでいる、というおびえとともに。そして、「絵に何が描かれているか」を瞬時に見抜く希有な才能を誰にも気づかれずに。
事態はさらに悪化します。ママが再婚したのです。死んだパパは軍隊で英雄だったのに、こんどの相手ジョーは太った絵描きです。にやにや笑いながら、うわべは有能な人間が実は心におびえを抱いていることを、うわべと内心とを同時に描いてしまう絵描き。サイモンはジョーを憎みます。パパのことを忘れてジョーに夢中のママも憎もうとします。
夏休みをジョー(とママ)の家で過ごすことになったサイモンは、近くの水車小屋に入り浸ります。明らかに放置されて久しく、でもつい先ほどまで人のいた気配が漂う不気味な小屋ですがサイモンには他に行くところがないのです。
サイモンは、偶然見つけた戸棚の穴から夜は夫婦の寝室を覗き、会話に聞き耳を立てます。この辺で私は『午後の曳航』になるのかな、と予想しますが……サイモンには仲間はおらず、そのかわり彼は心の中の悪魔に念じます。そして水車小屋からかかしが三つ、カブ畑を渡ってジョーの家に近づいてきます。少しずつ少しずつ。三角関係がもたらした陰惨な事件が起きた現場から。
過去の怨念がかかしを動かしているのか、それとも家族に拒絶されたと感じ頼れるのは死んだ父親だけと信じている孤独な少年の心の中に渦巻く暗いエネルギーがかかしを動かしているのか。かかしは、倒されても倒されても自然に起き上がり、そして少しずつ近づきます。防ぐことはできません。かかしが家に到着した時、一体何が起きるのか。
本当にコワイ小説です。
もちろんかかしが動いてくることは(そしてその背景となった物語も)コワイものですが、サイモンが教室でも家庭でも孤立していく過程の描写が、あまりに丹念なのが読者の心を締めつけます。そして物語の最後「もし目撃者がいたら、いちばん小さいが、ほかの三つと同じくらいぼろぼろになった四つ目の人影が、すぐそばに倒れるのを見たことだろう。」という文章でこちらは本当に悲しくなります。
水車小屋と広大なカブ畑、それだけの舞台でこれだけの話を書ける著者には、脱帽です。
図書館にはパソコンで蔵書検索ができるコーナーがありますが、先日行った小さな図書館ではパソコンが2台だけ設置されていました。で、そこでのんびりと寛いでいる(検索はしていない)人がいます。荷物はその隣の椅子に置いて。普段だったら放置ですが、たまたまそのときは検索をしたかったので「検索をしたいので、場所を空けてください」と言いました。すると「病院に行くまでここで待っているんです」 ……は? 「病院に行く」は「図書館の検索システム(の場所)を占領するための正当な理由」なのでしょうか? いや、まあ、それが正当な理由だとしても「自分の荷物も使ってもう一つの座席も占領する」理由にはならないと思います。そこで別に大声を出したわけではないのですが、すぐに職員がとんできて「休まれるのでしたら、こちらのベンチへどうぞ」とその人を誘導してくれました。検索そのものは20秒くらいですんだので、どちらかのパソコンが使えたらその人はそのまま病院に行くまでそこで過ごせたかもしれなかったのにね。
別の日の別の図書館。返却カウンターで「別に言い訳をしているわけではないけれど」と大声で言っている人がいます。ということは、苦しい言い訳をしているんですね。別に好奇心があったわけではありませんが、本を借りる手続きで隣に立ったので事情はすぐわかりました。返却期限を過ぎた本を「なくしたわけではない。探せば見つかることはわかっている。だから本は返せないけれど弁償はしない」と主張しているのです。たしかに“言い訳”ではありません。強弁です。本当に「探せば見つかる」のなら、探して持ってくればいいのです。話は簡単です。紛失したのかひどく破損したのかそれとも売り払ったのか、そのへんはわかりませんが、見苦しい(あるいは聞き苦しい)ことこの上ナシ。(実際に見苦しい風体ではありましたが)
図書館に限らず、日本中の「受付」で、こんな「愉快な言い訳」がきっと大量発生しているのでしょうね。笑顔で対応しなくちゃいけない職員は大変だわ。
【ただいま読書中】
『かかし』ロバート・ウェストール 著、 金原瑞人 訳、 福武書店、1987年、1300円(税別)
『ブラッカムの爆撃機』で“ど真ん中のストライク”を投げ込まれてしまったため、早速図書館で借りてきました。
サイモンは、寄宿学校でうんざりする生活を送っています。心の中に「悪魔」が住んでいる、というおびえとともに。そして、「絵に何が描かれているか」を瞬時に見抜く希有な才能を誰にも気づかれずに。
事態はさらに悪化します。ママが再婚したのです。死んだパパは軍隊で英雄だったのに、こんどの相手ジョーは太った絵描きです。にやにや笑いながら、うわべは有能な人間が実は心におびえを抱いていることを、うわべと内心とを同時に描いてしまう絵描き。サイモンはジョーを憎みます。パパのことを忘れてジョーに夢中のママも憎もうとします。
夏休みをジョー(とママ)の家で過ごすことになったサイモンは、近くの水車小屋に入り浸ります。明らかに放置されて久しく、でもつい先ほどまで人のいた気配が漂う不気味な小屋ですがサイモンには他に行くところがないのです。
サイモンは、偶然見つけた戸棚の穴から夜は夫婦の寝室を覗き、会話に聞き耳を立てます。この辺で私は『午後の曳航』になるのかな、と予想しますが……サイモンには仲間はおらず、そのかわり彼は心の中の悪魔に念じます。そして水車小屋からかかしが三つ、カブ畑を渡ってジョーの家に近づいてきます。少しずつ少しずつ。三角関係がもたらした陰惨な事件が起きた現場から。
過去の怨念がかかしを動かしているのか、それとも家族に拒絶されたと感じ頼れるのは死んだ父親だけと信じている孤独な少年の心の中に渦巻く暗いエネルギーがかかしを動かしているのか。かかしは、倒されても倒されても自然に起き上がり、そして少しずつ近づきます。防ぐことはできません。かかしが家に到着した時、一体何が起きるのか。
本当にコワイ小説です。
もちろんかかしが動いてくることは(そしてその背景となった物語も)コワイものですが、サイモンが教室でも家庭でも孤立していく過程の描写が、あまりに丹念なのが読者の心を締めつけます。そして物語の最後「もし目撃者がいたら、いちばん小さいが、ほかの三つと同じくらいぼろぼろになった四つ目の人影が、すぐそばに倒れるのを見たことだろう。」という文章でこちらは本当に悲しくなります。
水車小屋と広大なカブ畑、それだけの舞台でこれだけの話を書ける著者には、脱帽です。