ドアには重要な欠陥があります。開いた時向こうに人がいたらぶつけて怪我をさせるおそれがあります。車椅子の人間には普通のドアの開閉は困難です。さらに、子どもがヒンジの部分に指をはさんで指先を潰す恐れもあります。つまりドアは人類にとって使いづらく有害なものなのです。
では引き戸だったらOKかと言えばそうではありません。引いた戸を収めるために余分な壁面が必要となります。少なくとも向こうの人間を傷つける心配はありません。車椅子でも開閉はまだ楽です。でも、杖に頼る人間は、戸の動きにつれて転倒するおそれがあります。そして子どもはやはり指をはさむ危険が大です。ということで引き戸も人類にとって使いづらく有害です。
もっと手軽で害の少ない戸がどうして開発されないのでしょうか?
【ただいま読書中】![]()
『フォークの歯はなぜ四本になったか ──実用品の進化論』ヘンリー・ペトロスキー 著、 忠平美幸 訳、 平凡社、1995年、3689円(税別)
昔々人類が火を手に入れた頃、一番はじめは素手だったでしょうが、そのうち丸焼きにした肉を食べるのに石器のナイフと先をとがらせた枝を用いたはずです。そのうちそれは二本のナイフ、そして「ナイフとフォーク」に“進化”します。古代ギリシアには儀式用のフォークがありました。テーブル用のフォークで記録に残る最初は7世紀の中東の宮廷。フォークは12世紀にはイタリアに伝わり16世紀にフランスへ。イギリスへは17世紀です。目的は、テーブル中央の肉の塊を切り分けるのに、指のかわりに固定すること。イギリスでは当初「フォークは華美で女々しい道具」とされました。(ということは、シェイクスピアには(「ヴェニスの商人」は別として)フォークは登場しないわけね)
食卓では(台所用フォークとは違って)小さなものを扱うことや歯が抜けにくいことが要求されます。そこではじめは二本だった歯が増やされました(切り分け用だと固定のしやすさと抜けやすいことから、間隔の開いた2本歯で良い)。6本歯まで試されていますが、結局4本が「標準」となりました。フォークの変化はテーブルナイフにも突き刺す必要がなくなったので先が丸くなったりの影響を与えます。
17世紀のアメリカでは「ナイフとスプーンと指」が用いられました。スプーンで肉を押さえてナイフで切り、スプーンを利き手に持ち替えてすくって(あるいは指で)食べるのです(現在もフォークを頻繁に持ち替える(ジグザギング(右往左往))がアメリカ流として残っています)。だからか、初めてアメリカに4本歯のフォークが登場した時には「先割れスプーン」と呼ばれたそうです。日本の学校給食は、やはりアメリカ流?
既存の道具は、どんなものも「理想的なもの」とは言えません。必ず改善の必要があります。だからこそ様々な工夫が行われ、次々新しい道具が登場します。ところが「完璧に関するわれわれの観念」に定まったものはありません。その結果「モノ」は進化し、あるいは明かな欠点があるにもかかわらず改良されず、時には改悪されることさえあります。
本書では、日用品の「進化」そのものだけではなくて、その進化の原動力に注目して、まるで進化論を論じるように、日常的な道具を論じています。
発明家が何かを発明する有力な動機は、ある製品の「欠点(あるいは欠陥)を改良したい」という欲望です。著者は広く言われている「形は機能に従う」は教義でしかなく、実は「あるものの形は、別のモノの欠点によって決まる」と述べ、その実例をクリップ・テープ・ポストイットと次から次に出します。
「必要は発明の母」と言われますが、たとえ不便なモノでも「そんなものだ」と人びとが思っていたらそれは「必要」になりません。発明家はそこで「これは不便だ。もっと良いものができる」と思い具体的なアイデアを思いつきます(ここまではエジソンのいう1%の霊感)。そこからが「汗」の領域で、アイデアを具体的なモノにし、欠陥を取り除き、大量生産の道筋を考え、そして需要を喚起しなければなりません。さらに同様の「不便」に気づいているライバルたちに勝つための努力も必要です。そして重要で読めないのが消費者の動向です。なるほど「進化論」です。
著者は、ダーウィンをよく理解しているように私には感じられました。「新しい種」は人が生み出しますし、ここで働く淘汰圧は自然淘汰より複雑に思えます。しかし、「理想の形」を目指して定方向に「進化」するのではなくて、「とりあえず“現在”が出発点」「あるものはなんでも利用する」「いろいろ試してみて駄目なものは捨てられる」という根本は同じ。
まあそういった小難しいことは抜きにして、ファスナーやステープラーの変化について読むだけでも面白さが堪能できることは保証します。
では引き戸だったらOKかと言えばそうではありません。引いた戸を収めるために余分な壁面が必要となります。少なくとも向こうの人間を傷つける心配はありません。車椅子でも開閉はまだ楽です。でも、杖に頼る人間は、戸の動きにつれて転倒するおそれがあります。そして子どもはやはり指をはさむ危険が大です。ということで引き戸も人類にとって使いづらく有害です。
もっと手軽で害の少ない戸がどうして開発されないのでしょうか?
【ただいま読書中】
『フォークの歯はなぜ四本になったか ──実用品の進化論』ヘンリー・ペトロスキー 著、 忠平美幸 訳、 平凡社、1995年、3689円(税別)
昔々人類が火を手に入れた頃、一番はじめは素手だったでしょうが、そのうち丸焼きにした肉を食べるのに石器のナイフと先をとがらせた枝を用いたはずです。そのうちそれは二本のナイフ、そして「ナイフとフォーク」に“進化”します。古代ギリシアには儀式用のフォークがありました。テーブル用のフォークで記録に残る最初は7世紀の中東の宮廷。フォークは12世紀にはイタリアに伝わり16世紀にフランスへ。イギリスへは17世紀です。目的は、テーブル中央の肉の塊を切り分けるのに、指のかわりに固定すること。イギリスでは当初「フォークは華美で女々しい道具」とされました。(ということは、シェイクスピアには(「ヴェニスの商人」は別として)フォークは登場しないわけね)
食卓では(台所用フォークとは違って)小さなものを扱うことや歯が抜けにくいことが要求されます。そこではじめは二本だった歯が増やされました(切り分け用だと固定のしやすさと抜けやすいことから、間隔の開いた2本歯で良い)。6本歯まで試されていますが、結局4本が「標準」となりました。フォークの変化はテーブルナイフにも突き刺す必要がなくなったので先が丸くなったりの影響を与えます。
17世紀のアメリカでは「ナイフとスプーンと指」が用いられました。スプーンで肉を押さえてナイフで切り、スプーンを利き手に持ち替えてすくって(あるいは指で)食べるのです(現在もフォークを頻繁に持ち替える(ジグザギング(右往左往))がアメリカ流として残っています)。だからか、初めてアメリカに4本歯のフォークが登場した時には「先割れスプーン」と呼ばれたそうです。日本の学校給食は、やはりアメリカ流?
既存の道具は、どんなものも「理想的なもの」とは言えません。必ず改善の必要があります。だからこそ様々な工夫が行われ、次々新しい道具が登場します。ところが「完璧に関するわれわれの観念」に定まったものはありません。その結果「モノ」は進化し、あるいは明かな欠点があるにもかかわらず改良されず、時には改悪されることさえあります。
本書では、日用品の「進化」そのものだけではなくて、その進化の原動力に注目して、まるで進化論を論じるように、日常的な道具を論じています。
発明家が何かを発明する有力な動機は、ある製品の「欠点(あるいは欠陥)を改良したい」という欲望です。著者は広く言われている「形は機能に従う」は教義でしかなく、実は「あるものの形は、別のモノの欠点によって決まる」と述べ、その実例をクリップ・テープ・ポストイットと次から次に出します。
「必要は発明の母」と言われますが、たとえ不便なモノでも「そんなものだ」と人びとが思っていたらそれは「必要」になりません。発明家はそこで「これは不便だ。もっと良いものができる」と思い具体的なアイデアを思いつきます(ここまではエジソンのいう1%の霊感)。そこからが「汗」の領域で、アイデアを具体的なモノにし、欠陥を取り除き、大量生産の道筋を考え、そして需要を喚起しなければなりません。さらに同様の「不便」に気づいているライバルたちに勝つための努力も必要です。そして重要で読めないのが消費者の動向です。なるほど「進化論」です。
著者は、ダーウィンをよく理解しているように私には感じられました。「新しい種」は人が生み出しますし、ここで働く淘汰圧は自然淘汰より複雑に思えます。しかし、「理想の形」を目指して定方向に「進化」するのではなくて、「とりあえず“現在”が出発点」「あるものはなんでも利用する」「いろいろ試してみて駄目なものは捨てられる」という根本は同じ。
まあそういった小難しいことは抜きにして、ファスナーやステープラーの変化について読むだけでも面白さが堪能できることは保証します。