【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

攘夷

2013-01-10 07:00:44 | Weblog

 先日始まった今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で、佐久間象山が「相手に対して目を閉じた攘夷は本物ではない。相手を知り学んでその上で『(学んだ)夷の力」をもって打ち払うのが本物の攘夷だ」という意味のことを言っていました。なかなか開明派の攘夷論ですが、それで思い出したのが、八代将軍徳川吉宗です。攘夷どころかがちがちの鎖国状態の中で彼は洋学を志向して洋書輸入を解禁し、それが『解体新書』を日本に生じせしめ、さらにそれがのちの蘭学ブームを日本にもたらすことになりました。もしも「黒船」が彼の治世の時にやってきていたら、もしかして吉宗はしぶしぶあるいは大喜びで開国していたのではないか、なんてことも私は思います。ただその場合、日本はあっさり植民地にされていたかもしれませんが。

【ただいま読書中】『江戸の天文学 ──渋川春海と江戸時代の科学者たち』中村士 監修、 角川学芸出版、2012年、1400円(税別)

 『天地明察』で有名になった(二代目)安井算哲(のちの渋川春海)は、幕府の「碁職」でした。「初手天元」を初めて打ったのはこの算哲だそうですが、その才は碁よりは天文に向いていて、早くも12歳の時には「北極星は不動ではなくて微妙に動いていること」を観測しています。江戸時代に使われていた暦は中国から輸入されて862年から使われ続けた貞観暦でした。算哲はその暦をもっと良いものに変えるべきだという信念を抱きます。精密な観測と緻密な計算と理論、さらに、碁職という地位を生かして幕府や各藩の要人と結ばれたコネ、それらをフルに生かして算哲は改暦運動を行ないますが、それは長い困難な道程でした。それでも1684年についに(822年ぶりに)改暦が行なわれ「貞享暦」が日本の標準の暦となります。
 吉宗はその後に登場します。彼も6年間(1732~38)太陽の観察を毎日行なった(四尺の棒を立て、太陽の南中時にその影の長さを記録した)という隠れた天文マニアだったようで、貞享暦をなんとかもっと良いものにできないか、と人材を集めます。ところが御用学者だけでは限界がありました。そこで洋書の解禁をした、ということのようです。これは単なる趣味の問題ではありません。「暦を支配する」ことは、人々の生活を支配することで、そのためには「正確な暦」が必須だったのです。間違った暦を公認したら、それは「失政」ですから(その間違いがとてもわかりやすいのが、日蝕や月蝕で、暦がその予告を外すと「幕政批判」が起きるのです)。
 吉宗の「西洋の天文学の成果を入れた新しい暦を作成したい」という望みは結局適いませんでした。しかし、幕府ではなくて民間に人材が育っていました。その一人が豊後杵築藩の藩医綾部采彰(あやべやすあき)です。才能豊かな人間でしたが、天文学への思いを捨てがたく39才で脱藩、麻田剛立と名を変え大阪に身を隠して、医者として生計を立てながら天文・暦学の研究に明け暮れ、やがて「先事」という観測重視の天文暦学の私塾を始めました。この塾から西洋天文学をベースとした天文学・測量学の優れた学者が輩出しました。麻田の業績は様々ありますが、私が印象深かったのは、日本人で初めて「クレーターのある月のスケッチ」を残したことです。その名声は江戸まで届き、弟子が二人招かれて西洋天文学に基づいた改暦が行なわれました。「寛政暦」です。ここでは、太陽と月の軌道にケプラーの楕円軌道が採用されています。なお、この寛政暦を作成した一人高橋至時に弟子入りしたのが伊能忠敬です。
 江戸時代の天文を見るだけでも、歴史の不思議さを強く感じることができます。さて、次に読むのは『天地明察』かな。でも図書館では数十の予約が入っているのです。買った方が早いのですが、どこに置くかが問題なのです。