【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

最強の軍隊

2013-01-21 07:01:58 | Weblog

 「民主的な軍隊」というものが成立可能かどうかちょっと考えてみました。
 平時だったらあり得そうです。皆で討議してほとんどの人間が納得して動き出す軍隊。しかし非常時にはそんな討議の時間はありません。たとえば交戦中には、上意下達の命令系統によって瞬時に全員が動かないと部隊はあっという間に全滅でしょう。
 では「上意下達の命令系統が確立している軍隊」が最強か、と言えば、私はそれは疑問だと思っています。
 昔から「獅子の群れを羊が率いているよりも、羊の群れを獅子が率いている方が強い」なんて言い方がありますが、では「獅子が率いている羊の群れ」でその「獅子」が戦死したらどうなるか、という問題があるわけです。残りはたぶん一方的ななぶり殺しでしょう。
 ということは、「獅子の群れを獅子が率いている」のが最強と言えそうです。これだと、戦死などでリーダーが不在となっても他のメンバーがすぐにその代理として機能することができます。さらに「兵隊が獅子」ですから「チーム」でも「単独」でもその時選択するべき最善最強の行動をしてくれることが期待できます。
 ということで、最強の軍隊を夢見る人は、たとえ一兵卒でもいざというときには指揮官として機能できる人間を大量に養成しておく必要がありそうです。もちろん、たとえ元帥でも、いざとなったら有能なスナイパーや工兵などとして働けることも必要でしょう。そうでなかったら「獅子」ではありませんから。

【ただいま読書中】『哲学者とオオカミ ──愛・死・幸福についてのレッスン』マーク・ローランズ 著、 今泉みね子 訳、 白水社、2010年、2400円(税別)

 著者は哲学の教授で、飼っていたオオカミのブレニンを連れて教室に行っていたそうです。そういった行為に、「常識」とか「ナイーブな動物愛護」の観点から異議を唱える人は、なにしろ相手は哲学教授ですからね、あっさり論破されることは覚悟してください。オオカミの意外な面が次々紹介されますが、本書は単純な「オオカミと暮らした記録」ではありません。なにしろ途中で「ベジタリアンのオオカミ」なんてものまで登場するのですから(それもテツガク的な論考付きで)。
 オオカミは昔から「人間性の暗い面の象徴」とされていましたが、著者は「クリアリング」だと言います。森のクリアリング(森の中の開けた場所)から森の奥の隠れて見えなかったものが見えるように、オオカミは人間の魂のクリアリングなのだ、と。そして、そこに見えるのは、私たちが自分自身について知りたくないことかもしれないのです。
 メタファーとしての「オオカミ」の対極に著者が置くのは「サル」です。世界をすべて利用可能な資源と見なし、陰謀と騙しが可能な「知能」を持ちそれを日々活用しているのが「サル」。それは進化の過程で、選択の余地なく我々が獲得したものです。では、「オオカミ」は? 実は人の中に「オオカミ」もいます。著者はそれをブレニンと過ごした11年間から教わったそうです。
 人が持つ「悪意」や「邪悪」について、刺激的な論考が続きます。あるいは「社会契約論」を「オオカミの視点」から見たら何が見えるか、も。「契約は詐欺には報いないが、巧妙な詐欺には報う」なんて辛辣なことばも登場します。そして私たちは「サル」とは契約できますが「オオカミ」とは契約ができません。そして「忠節」や「幸福」は「契約」では得られないのです。
 ブレニンが死んだとき、著者が考えたのは「自分がなにを失ったか」ではなくて「ブレニンは何を失ったか」でした。もし「死」が有害なものだとしたら、それは「死」が「生」から何かを奪うからでしょう。では、一体何を?(「死」は「生命」を奪う、というのは、エピクロスやヴィトゲンシュタインが持ち出されてあっさり却下されます) ここでの論考も非常に興味深いものです。著者の「哲学」は地に足がついていますが、走るときにはオオカミのように疾走します。それについていくのは、大変ですが、快感です。
 「人間とは何か」を考えた人はこれまでにさまざまな答を出しています。道具とかことばとか。しかしそれらは「人間の死とは何か」ときちんとつながっているでしょうか。「人間」と「死」は不可分なのだから、「人間とは何か」の回答は「人間の死とは何か」とも関連があるべきではないか、と。著者は考え続けます。そして「永劫回帰」が登場します。オオカミ(と犬)は、永劫回帰の中で生き生きとしているのではないか、と。
 著者はこう主張します。「私たちは瞬間を透かしてみるから、瞬間は見逃すが時間の矢を捉えることができる。オオカミは瞬間を見ることは得意だから時間の矢は逃げてしまう」 どちらが「優秀」というのではなくて、「サル」と「オオカミ」は「そういうもの」なのでしょう。そしてこれは本書を貫くテーマの一つ「優秀性というのは、ある一点においてだけ言える」の好例です。
 本書の最後は「最高の瞬間」に関する章です。これがまたすごい。「人生がそれに向かって進む目標となるような瞬間」「強い喜びに満ちた瞬間」「自分が本当は何者かが明らかになる瞬間」という解釈はすべて「誤解」であると却下されます。著者が言う「最高の瞬間」は、「自分の最良の面を明らかにしてくれるもの」。たとえ苦痛に満ちていてもそれ自体で完結しており、他のもので正当化する必要がないもの。もし自分に価値があるとしたら、これらの瞬間こそが自分を価値あるものにしてくれる、そういったもの。希望が失われた後に残る自分。(私はここで、ナチスの強制収容所の中での人に感銘を与える「素晴らしい人々」のことを想起します)
 本書は、哲学入門書としても使える本ですが、自分の魂の中に「オオカミ」が残っているかどうかの判定書としても使えます。私自身は本書を読んでいて「サル」ばかり見つけてしまってげんなりしてしまいましたが、それでも少しだけですが、オオカミがいることもわかりました。ただ、それを誇るのは「サル的行為」なんですよね。サルは所有し、オオカミは存在する、なのです。気をつけなくっちゃ。