プラトンで固くなった頭をほぐすためには、絶好です。ある“若い衆”に「面白いよ」と薦められて読みたくなった、というのが本当の理由ですが。
【ただいま読書中】『紫色のクオリア』うえお久光 著、 アスキー・メディアワークス(電撃文庫)、2009年、610円(税別)
「(自分以外の)ニンゲンがロボットに見える」と言う美少女毬井ゆかり(平均身長より小柄な中学生、虹彩はきれいな紫色)の友達波濤マナブ(絵で見る限りこちらも美少女、でも本人は自分に自信が無い)の一人語りで本書は始まります。
「ロボットに見える」ということは、つまり「ロボット」に見えるわけです。ところがゆかりが「すごいセンサーがついている」と見える人は天気を読むのが得意で「足にローラーとバーニアがついている」と見える人は陸上部に入ったら大活躍。「立派なドリルがついている」のは……これはとりあえず謎です。で、「ロボットに見える」ことが「現実」なら、それは「人をロボットとして扱える」ことも意味します。これが驚愕の展開を引き起こします、というか、“こういった徹底した世界観”がライト・ノヴェルで扱われるとは……「ライト」の文字列にだまされないようにしないといけません。
さて、第二話です。毬井の“仇敵”だったはずの天条七美と波濤マナブは、“同じ目”に遭ったことで接近をします。二人が話すのは、シュレディンガーの猫とかコペンハーゲン解釈……これが中学生の会話ですか?
そこに「数式が絵に見える」天才少女アリス・フォイルがアメリカから転校してきます。世界に希有な才能を持つ子供(この場合は毬井ゆかり)を秘密組織「ジョウント」にスカウトするために。そして、近い将来、ゆかりに死をもたらすために。
ここで、マナブの左手に自分自身から電話がかかってきます。「このままじゃ、ゆかりが死んじゃう」と。これまでにもちらちらと「平行宇宙」というか「多世界」というか、そういったものへの言及が行われていたので、「この世界」はたぶん改変されるのだろうな、とは思っていましたが、それでも「自分からの電話」に私は一瞬たじろぎます。
ゆかりは渡米し、半年後に死亡します。それを防ぐためにマナブは無数の平行世界を重ね合わせ、ゆかりの死の真相を知りさらにその死を予防する手段を模索します。あらゆる経路を通るはずの光が、二点を結ぶ場合には最小時間の経路を選択する「フェルマーの原理」を頼りに、あらゆる可能性を試して「ゆかりを助けられる“経路”」を見つけようとします。しかしそれは「シュレディンガーの猫」が「箱の外」に向かって何かを叫ぶのと似た行為でした。「猫」は「確率的存在」で、その行為は「箱の外」からは観測されないのです。(私見ですが、「フェルマーの原理」は「結果論」で「時間最小の経路で到達した光」をその出発点に逆にたどっているだけではないか、という疑いを私は持っています)
ともかく話はどんどん大きくなり、とうとうマナブは、宇宙の根本原理そのものに触れることになります。ゆかりを助けるために、宇宙そのものを作り替えてしまおう、というのです。しかしそれは「自分自身の消滅」という犠牲を伴っていました。
そして、「観測されない存在」になったはずのマナブが「わ、ガクちゃん?」と観測されてしまいます。そして(観測する主体である)「私」とはなにかという壮大なテーマが登場したところで、あらかじめ予告されていた「夢落ち」です。いやもう、私は震えてしまいます。怒りではなくて、感動によって。
繰り返しになりますが、「ライト」の文字列にだまされてはいけません。1960~70年代に、「自宅の裏庭」で始まった話がどんどんエスカレートして最終的には全宇宙規模になっていく、といったSFを読んだときに感じた「自分の視点がぐいぐい拡張されていくセンス・オブ・ワンダー」をまた感じることができました。懐かしい感覚です。自分がまだその感覚を持っていることが“観測”できるのは、嬉しいことです。