バス、タンクローリー、パトカー、F1カー、タンカー、宇宙船
【ただいま読書中】『江戸のハローワーク ──現代の職業のルーツは江戸時代にあった』山本眞吾 著、 双葉社、2012年、800円(税別)
江戸には「ハローワーク」がありました。当時は「口入れ屋」と呼ばれましたが、現代の人材派遣会社の機能も併せ持っていました。しかし、「やる気」さえあればその日から始めることができる「天秤棒で荷物を担いでの行商人」も様々な種類の仕事が江戸には用意されていました。
魚は「一種類だけの行商人」(たとえば鰯売り、蒸し鰈売り)がいました。鯵売りは季節に関係なく売り歩きましたが、特に夏の夕方にやってくるのを「夕鯵」と言って江戸の風物詩として親しまれたそうです。江戸風情ですねえ。
貝売りには子供が多く見られたそうです。これは風流とはちょっと言いがたいけれど、たぶんそれは現代の感覚でしょうね。当時には当時の事情があったはず。鯨も当時は「魚」でした。江戸では年末の大掃除の日(12月13日)に鯨汁(味噌汁に鯨の白肉を入れたもの)を食べる習慣があり、行商人が売り歩いたそうです。
「浅草海苔」は、最初は本当に浅草川で採取されていました。しかし養殖は品川や大森で行われそこから浅草の海苔問屋に送られていたそうです。問屋の中心はそのうち日本橋に移ります。
江戸100万人に野菜を供給していたのは近郊の農家でした。隅田川東側は三角州地帯で、蓮根・クワイ・里芋・ネギ類に適し、江戸西側は関東ローム層の台地で水の便は悪いのですが、根菜類の栽培に適していました。その野菜類が集荷されたのが青物市場です。その中で最大規模を誇ったのが神田青物市場。小売店は「青物屋」「青屋」と呼ばれました(「八百屋」は上方の呼称です)。
小売りの米屋は「搗き米屋」と呼ばれました。問屋から玄米を仕入れ、搗いて売ったからです。臼を転がしながら「米搗き」の行商をする「大道搗き」もいました。めっちゃ体力が必要そうです。
酒も大量に消費されます。上方からの酒は「下り酒問屋」が扱い、関東の酒は「地回り酒問屋」が扱いました。
蕎麦は最初は、練ったものを菓子屋で蒸籠に盛って蒸して食されていました。それが「麺」になって「食事」になります。最初はうどん屋の付属のような感じですが、やがて蕎麦屋として独立します。なお、当時の蒸籠は、現在のより小ぶりだったそうです。
逆ににぎり寿司は、最初の頃はおにぎりのような大きさだったそうです。江戸っ子が立ち食いで2~3個口に放り込んだらさっさと立ち去る、ということで、小さいのをちまちま、とはいかなかったのでしょう。
お茶屋は「葉茶屋」と呼ばれました。水茶屋・料理茶屋と区別するためです。お茶(煎茶)を飲む習慣が広がったのは元禄頃から。
現代の飲食店のルーツは「煮売り」です。調理した煮物・焼き物を売る商売の総称ですが、振り売り・立ち売り・辻売り・居付き店とあらゆる形態がありました。大名屋敷や大きなお寺などに弁当を配達する者は「焚き出し(賄い屋)」と呼ばれ、それが庶民相手に商売をする「飯屋」「居酒屋」になっていきます。
江戸を代表する職人は大工・左官・鳶で「三職」と呼ばれました。江戸では、棟梁(大工の親方)を「とうりゅう」、左官を「しゃかん」とも発音していたそうです。
本書では落語が多く引用されています。当時の庶民の生活を活写しているから当然ですが、「教養」として落語を聞くようになる時代が、そのうち来るかもしれません。私は楽しみで聞きますけれどね。本書に登場する噺の中では特に「紺屋高尾」を聞きたくなってきたなあ。