【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

将棋電王戰始まる

2014-03-17 06:51:11 | Weblog

 プロ棋士と将棋ソフトが対決する「第3回 将棋電王戦」が始まり、初戦は人間が負けました。これは大変だ、と思っていたら、次の対局にケチがついたようです。
 「将棋電王戦、出場ソフトにバグ修正の“特例”認める 「棋士に失礼」「興ざめ」と非難の声も」(ITMEDIA)
 ソフト開発側は人間の棋譜をすべて研究することができますが、人間側はソフトがどんなものか一切情報がありません。だからあらかじめソフトが貸与されてその癖を研究することが許されています。ところが今月22日対局予定のソフト「やねうら王」では、貸与されたソフトにバグがあることが棋士から指摘されたためその修正が行われた、とのこと。これってつまりは、プロ棋士を使ってバグ出しをやり、さらにそれでプロ棋士の研究や練習時間を減らし、さらに口約束とは違って最初のものより棋力を向上させ、結果として勝利をもぎ取ろうとしている、ということです。いやあ、戦うのはコンピューターソフトですが勝つための手段としては非常に“人間くさい”やり方ですね。「勝負」とは“そういうもの”なのかもしれませんが。

【ただいま読書中】『意識の哲学 ──クオリア序説』信原幸弘 著、 岩波書店、2002年、2800円(税別)

 「トマト」を見たとき、私たちの脳内には「知覚されたトマト」が出現します。そこでいくつかの問題が発生します。たとえば「私が知覚したトマトと、あなたが知覚したトマトが“同じ”である保証はあるか?」「幻覚で見たトマトから脳内に出現した“知覚されたトマト”は、何物か?」。「クオリア」の登場です。
 自分の意識的経験に対する直接的な認識は「内観」と呼ばれますが、本書では内観によって「クオリア」の本性が正しく捉えられるはずだ、と述べられます。ところで「トマト」を見たときに私たちが「これはトマトだ」と認識するのは、その「形」「におい」「色」「大きさ」「味」「重さ」「雰囲気」など様々なものを総合的に判断して「これはトマトだ」と感じているわけです。それを一つ一つ「赤のクオリア」「トマトのにおいのクオリア」と分析的に認識しているのかしら。私は「『赤い』+『トマト』」と分析的に認識しているのではなくて「赤いトマト」でまとめて認識しているのではないか、と感じています。
 本書を読んでいて非常にもどかしさを感じるのは、「クオリア」を「言葉」で捉えようとしているからではないか、と私には感じられます。クオリアのようにわかりにくいものを、言葉のように(たとえばシニフィエとシニフィアンのような)二重性があるもので捕まえようとしても、こんどは言葉の複雑さの隙間にクオリアが逃げ込んでしまうのではないか、と感じられるのです。「赤いトマト」という「シニフィアン」が、一体どんな「シニフィエ」を包み込んでいるのか、それをきちんと認識できるのは「その人のクオリア」のはずです。私のイメージでは「シニフィアンに包まれたシニフィエ」を丸ごと人は受容し、自分の脳内でそこからシニフィアンをはぎ取ってシニフィエだけを脳の「ものごとを認識する受容体」にくっつけて認識、そのときはぎ取られたシニフィアンは「言語認識の受容体」にくっついて「自分が何を認識したか」をことばによってラベリング。シニフィエがくっついた受容体が使っているのが「クオリア」ではないか、というのが私の仮説です。哲学者が思っていることに合っているかどうかは知りません。私には私のクオリアがあって、それで世界を認識しているのですから。
 ちなみに、私の仮説では「赤いバナナ」に人が違和感を感じる理由も簡単に説明できます。私たちが持つ“受容体”には「黄色いバナナ」や「緑のバナナ」はあっても「赤いバナナ」は無いのです。もちろん「シニフィアンの受容体」の方はちゃんと「赤いバナナ」を「赤い」と「バナナ」と分解して受け取りますが「シニフィエの受容体」の方は受け取りに失敗します。その“ずれ”によって違和感が生じる、となるのです。