……ところで、「絆」って、もう死語ですか?
【ただいま読書中】『巨大津波は生態系をどう変えたか ──生きものたちの東日本大震災』永幡嘉之 著、 講談社(ブルーバックス)、2012年、1000円(税別)
「豊かな自然」が売り物の一つだった東北地方で、著者は主に日本海側を撮影して回っていました。そこに大震災。著者は「豊かな自然」がどう変貌したのか、を心配すると同時に、「そもそも“豊かな自然”とは何だったのか」と自問します。ともかく、それまでの「きれいな写真を撮る」プロの態度は封印し、2011年は「とにかく記録としての写真を残す」ことに著者は注力しました。「こんなことをしている場合か?」とも著者は自問します。しかし、「今」しておかなければ「この姿」はおそらく永遠に失われてしまうでしょう。
「豊かな自然」はどんどん失われていました。たとえばかつて豊富にあった低湿地は水田や宅地となっていますが、おそらくそのために(たとえば貞観大津波のときと比較したらわかるように)津波の被害は増大しています。
砂浜も、連続していたらどこかが津波で全滅しても、生き残った地域が点在してでも残っていたらそこからまた“復活”することがあり得ます。しかしすでに開発で砂浜が寸断化されていたら、「点在している生存地域」がありません。何かの種が全滅したら全滅したままです。環境省の「レッドリスト」は、実は「その種が絶滅危惧」であるだけではなくて「その種が生存可能な地域が絶滅危惧」なのです。たとえば砂浜に住むカワラハンミョウは岩手県では根浜海岸にだけ棲息していました。そこも津波で破壊されています。11年4月17日に著者が訪れたとき、そこには砂浜はなくただ海面が広がるだけでした。その1年前の写真と比較したら何が起きたかは一目瞭然です。
地震と津波による物理的な破壊、海水による塩害、まき散らされたがれきや重油によって環境はダメージを受け、生態系は単純化されます。
著者が危惧するのは絶滅危惧の「生きもの」だけではありません。「きっとどこかに生き残っているよ」という根拠のない楽観論(原発神話の生物版?)が「だから調査も対策も不要」に結びついていきそうなことに危惧を抱いています。
やがて「自然」が回復してきたように見えます。本書にも様々な昆虫や植生が登場します。しかしそれは、過酷な環境でも生きることができる種(特に、その地域に本来いたのではない外来種)が主体となっていることに著者は気づきます。そういった中で、絶滅危惧種1類のコガネアオイトトンボが塩水でもたくましく繁殖をしている姿に著者は「人間による環境変化には絶滅に追いやられているのに」とある種の感慨を持ちます。
絶望と希望が同居している本です。ただし、「人の営為」については苦いものしか抱けません。震災前には「開発」で環境を破壊し、震災後は「復興」でやはり環境アセスメントを省いて工事を進める姿は、「東北を破壊しよう」という意志の強固さが震災とは無関係に貫かれていると見えます。「豊かな東北の自然」を「復興」しようと願うことは、変なことですか? だけど、本書で語られるその願いと行動は、本来は個人ではなくて、環境省あたりが音頭を取って全政府とNPOなどとの協力で取り組まれるべきビッグプロジェクトのはずです。そういったことにまったく興味を示さない“お上”を見て私が想起するのは「金の亡者」という言葉だけです。