【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

奉「公」

2014-06-20 07:16:37 | Weblog

 滅私奉公と言ったら、戦前の日本のことを私は思います。自分自身を国家(公)に捧げる態度、と。しかし「奉公人」だとこれは商家のために尽くす人です。滅私奉公よりはこちらの方が古いものですから、もしかしたら日本人にとって「公」とは「お家」のことなのかもしれません。武士の「ご奉公」も「お家」のためであって、「国」のためではありませんし。

【ただいま読書中】『国家を騙した科学者 ──「ES細胞」論文捏造事件の真相』李成柱(イソンジュ) 著、 淵弘(ペヨンホン) 訳、 牧野出版、2006年、2300円(税別)

 ES細胞の黄禹錫事件はまだ記憶に新しいところですが、本書では「科学」「政府」「マスコミ」で「民主主義」が機能していなかったことが事件の本質である、としています。なかなか新鮮な視点です。
 ヒトクローン胚からのES細胞作製によって「大韓民国の英雄」となった黄禹錫博士は政府によって第1号最高科学者に認定され、得意の絶頂となります。しかし韓国のテレビMBCの『PD手帳』で「疑惑」が報道されます。韓国は怒りに包まれます。「英雄の足を引っ張るマスゴミ」に対して。『PD手帳』のスポンサーに対する不買運動が起きスポンサーはすべて撤退、『PD手帳』の責任者を罰しろとの抗議集中で最高検察庁のサーバーはダウンします。『PD手帳』は打ち切られ、圧倒的な世論(とマスコミ)の狂騒にMBCは追い詰められますが、このあたりから潮目が変わり始めます。ついに「捏造」の特ダネが登場し、それまでの熱狂的な支持者は、呆然とする者と「これは陰謀だ」とさらに熱狂的になる人とに分かれます。MBCの“受難”を楽しんでいた他のマスコミ各社は、ひそかに慌て始めます。
 全国を覆う「熱狂」の対極に本書で位置させられているのが「冷静に検証をする若い科学者たち」です。20世紀までだったらこういった人たちの活動はなかなか表に出なかったでしょうが、今はインターネットのおかげできちんと記録が残るのはありがたいことです。
 掲示板で「本来違うはずの二枚の写真が同一である」ことの指摘から「検証作業」が始まります。これはSTAP細胞の時と似ていますね。それに対して「ただの単純ミス」と“反論”が行われたのもそっくりです。
 一口に「マスコミ」と言っても、社によって対応は様々でした。世論に敏感なあまり「真実」から遠ざかったところもあれば、「真実」に気づきながら対応が遅れたところや真実を報道しようと努力したところもありました。著者は詳細に各社の比較をしていますが、社の組織が官僚的なところはどうも対応が遅れる傾向があるようです。
 この事件の特徴の一つは「科学」が「国益」と結合したことです。そのため「基本的な事実」が多く見過ごされました。マスコミは「科学」はわからなくても「国益」については報道できる、ということなのかもしれませんが。「クローン牛」「乳量が倍のスーパー乳牛」「遺伝子組み換え豚」「BSE耐性牛」などのセンセーショナルな発表を続け「国益のため(日本などに技術を盗まれないため)」に論文を発表せずにいた黄教授が満を持して発表したのが「ES細胞」だったのです。マスコミは(それまでと同じように)熱狂し「ノーベル賞だ」と持ち上げます。
 次々と出現する蜃気楼を追い続ける人の姿を私は連想します。
 そして、カール・ポパーの「反証可能性」が登場します。科学において「反証可能性」は重要な概念です。誰でも異議を唱えたり検証をする自由があること、その自由が科学には不可欠なのです。「国益」や「熱狂」によって科学的真実が決定されるのではないのです。そしてその「反証可能性」は、政治やマスコミにも必要です。
 その「反証可能性」(を保証する「自由」)を著者は「民主主義」と呼びます。
 ここで私は思います。韓国の虚構や狂乱を笑うのは簡単です。しかし、日本にも「民主主義」はありますか? STAP細胞のとき、マスコミに民主主義はありましたっけ? STAP細胞に限りませんが。