【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

読んで字の如し〈草冠ー8〉「苗」

2015-01-04 08:28:48 | Weblog

「豆苗」……豆のように小さな苗
「苗代」……苗の代理
「猪苗代」……猪の苗のかわり
「苗床」……苗の床屋
「捨て苗」……拾われることもある
「青苗」……青ざめた苗
「早苗歌」……早口で歌う苗の歌
「苗字」……苗という文字

【ただいま読書中】『科学の地理学 ──場所が問題になるとき』デイヴィッド・リヴィングストン 著、 提雅範・山田俊弘 訳、 法政大学出版局、2014年、3800円(税別)

 「科学の地理学」とは、直感的には変な言葉です。科学はグローバルなものであり、その知識がどこで得られたかというローカルな因子は排除されているはずなのですから。しかし、科学は時間と空間の中に位置づけられている人間の営みです。ですから、時間(科学史)に注目できるのなら、空間(科学の地理学)を無視できるわけもないでしょう。ということで、地理学者の視点で科学を見たらどんなものが見えるか、という本です。
 イギリスの初期の「科学者」は自宅で実験をしていました。しかし、学生に対する教育や大衆に対する啓蒙などの目的のため、「実験室」がアカデミー内部に、一種の“舞台”としてしつらえられるようになります。博物館もまた、倉庫から劇場へと“進化”します。実験室や博物館が充実すると、こんどはもう一つの“現場”である「フィールド」も重要になります。はじめは「博物館のための材料提供の場」でしかなかったフィールドですが、フィールド研究者は「フィールドそのものの重要性」を訴えました。ただ「フィールド」はあいまいで一貫性のない概念です。「“フィールド”とやらに出かけることは沽券に関わる」と主張するヴィクトリア時代のジェントルマン科学者の“権威”を、フィールドを中心に活動する科学者は熱心にひっくり返そうとしました。
 「文書館や博物館」と「フィールドや自然」の中間に、「庭園」が位置します。最初の庭園は「エデンの園」です。しかしやがて庭園は「神の領域」から「世俗的な資産」へと性格を変えていきます。「庭園」と「博物館」が重なり合う領域では「植物園」や「薬草園」が発生します。なおこれは、帝国主義や資本主義ともオーバーラップしています。動物取り引きからは「動物園」が発生します。
 「科学」が「地域」に依存する場合があります。
 17世紀イタリアでは、宮廷文化が花開いていました。そこでは「討論」が重要な要素でしたが、だからこそガリレオ・ガリレイは、イギリスだったら許されなかったであろうけんか腰での討論で自分の仕事を進めることができました。しかし、だからこそ「キリスト教」と激しく対立することにもなってしまいました。イベリア半島では、北アフリカからのアラビア文化の影響が濃厚であることと、ヨーロッパの外れという位置から海洋的な探究心がかき立てられたことが特徴としてあげられます。アラビア文化と探検とで作られたイベリア科学の特徴は、「帝国」「地図」「機器の革新」でした。イギリス科学もまた「探検」を重視していましたが、イタリアやスペインと違っていたのは「宗教」です。イギリスのプロテスタントは「権威(カトリック、古代ギリシア文化)」を嫌います。さらに「ジェントルマンこそが真理を述べる」というイギリス文化がイギリス科学にも直接の影響を与えます。
 かくして、16~17世紀には、イタリア・スペイン・イギリスでは「まったく違う科学」が存在していたのです。世界史の年表よろしく、単に「年」だけに注目していては科学史を理解することはできない、ということがよくわかります。
 そういえば20世紀にもソ連でルイセンコに代表される「独自の科学」が発展していましたね。
 「科学」が「一般性」を獲得するためには、まず「ローカル」の存在を認めてデータを集め、それを標準化する必要があります。もしも最初から標準化されたデータだけが入手できたら、それはおそらく人為の産物でしょう。しかし、一度標準化が為されると、世界はもう元には戻れなくなります。だけどこの世界は地域としての「ローカル」が、そしてそれぞれが全く異なる「個人」が集まってできていることは、常に念頭に置いておいた方が良さそうです。