最近印象的だった“事件”の中に「論文の捏造」と「難聴の作曲家であると周囲を騙る」ものがありました。もちろん「その“主犯”」についていろいろ思うことはありますが、こういった場合にあまり語られることがない“主犯の周囲にいて、ちゃっかり利益を得た人間”についても見過ごしてはいけないのではないか、と思うことがあります。そういった“共犯者”は絶対いると思うんですよね。上手く立ち回って“利益”を得て、捏造がばれたらまたまた上手く立ち回って「責める側」あるいは「騙された被害者」の立場に自分を置いて、“損害”を被らないようにしている人たちが。
ただ、そういった人たちって、「自分に利益をもたらしてくれていたものを告発によって世間にその正体をバラしてくれた人」に対しては絶対に恨みを抱いているはずです。だから告発者に対しては、極力辛く当たるようにしているのではないかしら。
【ただいま読書中】『考古学崩壊 ──前期旧石器捏造事件の真相』竹岡俊樹 著、 勉誠出版、2014年、3200円(税別)
1949年に岩宿遺跡が発掘されてから、前期旧石器時代の遺跡発掘競争が日本では始まりました。ここで「発見された“石器”は本当に人工物か」「発見された地層は確かか」で激しい論争が繰り広げられます。しかし20世紀末に主に宮城県で次々と石器が発見され、考古学史は大きく塗り替えられていきました。
このときの“熱気”を私は覚えています。数万年前がすぐに10万年前、20万年前、と数字がどんどん大きくなっていき、そのうち100万年前の遺跡も見つかるのではないか、という“景気”のよい話も言われていましたっけ。しかし、ヨーロッパでネアンデルタール人が現生人類に置き換わっていったのは10万~20万年前のことだったはず、日本列島では現生人類の“前”に、誰が住んでいたのだろう、とも私は思いましたっけ(ちなみに現生人類の御先祖がアフリカを出たのは20万年くらい前のことです)。
そのとき盛んに喧伝されたのが「神の手」藤村でした。彼が行く先々で、石器が次々発見されるのです。しかし著者の目からはそれは縄文時代の石器がなぜか旧石器時代の地層から都合良く発見されるだけに見えました。著者は批判論文を書きますが、学会は「神の手に対する個人攻撃」として相手にしません。そして、毎日新聞のスクープが。「捏造発覚」です。
捏造が発覚して、それで事態はさらに混沌とします。鮮やかに“転身”した人たちは、攻撃は最良の防御、と攻め始めます。その対象は“スケープゴート”となった藤村や彼に極めて近い人たちのこともありますが、あろうことか、捏造発覚前から疑念を公表していた著者らもまた攻撃の対象になったのです。人間は保身のためならなんでもやるんだな、と感じます。また、そこまでやらなければ“出世”は望めないのでしょう。
本書で語られるのは「個人の犯罪」だけではありません。それを“サポート”する学会やマスコミの“病理”がけっこう強い口調で語られます。これを読んでいて私が連想したのが「STAP細胞騒動」です。“病理構造”は、ほとんど同じではありませんか?
おっと、STAPよりもっともっと前のことも思い出さなければいけませんね。たとえば太平洋戦争の敗戦です。きちんとした検証もせずうやむやにスケープゴートにだけ責任を押しつけて解決するべき本当に重要な問題を隠蔽する態度は、この石器捏造とよく似ていますから。日本人の態度は、実は歴史的には首尾一貫しているのかもしれません。