【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

人道的な死刑

2015-01-09 07:18:19 | Weblog

 「非人道的な死刑」をなんとかしようと考えたギヨタンが発明したのがギロチンでした。「人道的な死刑」と言われるとちょっと首を傾げたくなりますが、それまでの斬首刑が、死刑執行人が振るう剣でおこなわれていて、けっこう不手際(何回切りつけても死なない)が多かったことを思うと、「人道的」という言葉を個々で使うのも、あながち間違いではない、とは言えるでしょうね。

【ただいま読書中】『死刑執行人 ──残された日記と、その真相』ジョエル・F・ハリントン 著、 日暮雅通 訳、 柏書房、2014年、2200円(税別)

 今から約400年くらい前のドイツ(神聖ローマ帝国)の自由都市ニュルンベルクに、フランツ・シュミットという“親方”がいました。仕事はメインが死刑執行と拷問、副業が医療。初めて死刑執行をした1573年から引退した1628年まで、彼は詳細な日記を残しました。それは単なる業務日誌のようなもので「私」という主語はほとんど登場しないものですが、著者はそれを読み込み、フランツが生きた時代とフランツ個人の“真の姿”を浮かび上がらせます。
 16世紀に強力な領邦君主の登場でそれまで帝国を荒らしていた貴族同士の私闘は減っていました。しかし大きな「国」ができると君主はさらなる領土拡張を目指し、豊かな富を使って傭兵を大量に集め、軍拡とインフレと高い失業率の「長い16世紀」となります。傭兵は、軍にいても乱暴狼藉三昧ですが、軍を出たら追いはぎや盗賊となりました。また、妖怪も実在の存在と思われていて、それが魔女狩りの“下地”となっています。庶民には救いがありません。そういった時代に人びとが救いを求めたのは、宗教でした。そしてもう一つが「法の執行」。熟練の死刑執行人がおこなう処刑は「正義」の体現だったのです。
 フランツは父の下で修業をした後、遍歴の徒弟修業をおこないます。当時死刑執行人はで、法的権利は剥奪されていました。「死」に関与する人が社会から蔑視と排斥を受けるのは、日本だけのことではなかったのです。(居住区は“不浄”な地区、市民権はなし、教会や公共の建物への立ち入りは禁止、特別な服装の強制……なんだか「ユダヤ人差別」を思い出します)
 「バンバルク刑事裁判令」「カロリナ刑法典」などで刑法が整備され、法的根拠が与えられることで死刑執行人の身分は少し格上げされます。さらにルターは「犯罪者を罰するのは神の御業で、死刑執行人は“神の手”である」と称揚します。昔からの慣習を大切にする社会の抵抗はありましたが、おかげで死刑執行人の地位は向上し始めます。
 死刑執行人の“副業”は、医療行為でした。人体解剖に精通していることや、拷問で骨折した骨を公開処刑までに治す技術や、拷問で生じた傷を(次の拷問をするために)早く癒えさせる技術などが、そのまま大衆にも使えたのです。西洋で「医者」をやっていたのは、床屋だけではなかったんですね。驚きです。
 斬首は専用の剣でおこなわれました。江戸時代の日本と似ていて、剣での打ち首は名誉と結びついていて、市民や貴族からは好まれました。絞首刑は、まだ落とし戸付きの絞首台が開発されていなくて、時間がかかる苦痛に満ちた処刑法でした。ですから斬首は「人道的」だったのです。今では考えられない車裂きの刑は、手足を少しずつ砕いていく残酷な死刑です。19歳からフランツは各地を遍歴しながらそういった死刑を実行していきました。そしてその途中で当時としては驚くべき決心をします。「禁酒」です。酒飲みであることが“常識”の社会で、特に死刑執行人は大酒飲みで知られていましたが、そこに宗教的な禁欲を持ち込んだのです。
 死刑執行人は訴訟手続きで中心的な役割を果たしていました。容疑者の自白を引き出す役割です。尋問や拷問の執行が、死刑執行人の仕事でもありました(「こいつは間違いなく有罪だ」という確信をその過程で得ることができたら、死刑執行もトラウマにならずにすむ、ということだったかもしれません)。
 フランツの時代には、必要以上に残虐な刑罰は廃止される傾向にありました(たとえば、殺人未遂に対して目をくりぬく、偽証に対して「誓いの指(親指と人さし指)」を切り落とす、神を冒瀆すると舌を切断する……)。それでも、いろいろな体刑(指の切断、体に焼き印を押す、耳を削ぐ……)は保存され、フランツはそれらを執行しています。好ましくない人間は晒し台の上でむち打ちの後街から追放されましたが、それも死刑執行人の仕事でした。そして、公開処刑。「正義の執行」を求める大衆に、望んでいるものを与えることができるかどうかが、執行人の腕の見せ所だったようです。無様な執行をしてしまうと、怒った群集が執行人をリンチしたり、ドイツの町によっては「3回剣を振るっても斬首に失敗したら、その執行人がかわりに首を落とされる」なんて決まりがあるところもあったそうです。
 社会的に虐げられる階層のフランツは、名声を濫用したり他人の名誉を毀損する人々に対しては厳しい態度を取ります。名誉が権力者によって与えられ、名声が生まれた階層によって大きく差がある社会で、「何者であるか」ではなくて「どのように振る舞っているか」で人を判断しようとするフランツの態度は、きわめて近代的です。そしてフランツは、職務に誠実に熱心に取り組むことで、ニュルンベルクでの自分の評価を高めていきました。繰り返しの請願で給与をアップさせ、終身在職権と年金を確保、そしてついに市民権までも手に入れます。すごい“立身出世”ですが、フランツの最終目標はまだまだ遠くにありました。
 老齢を理由に引退したフランツは、1624年神聖ローマ皇帝に「自分の家族の名誉を回復する請願書」を送ります。自分の父親が辺境伯によってまっとうな職人から死刑執行人に無理矢理身分を落とされたことへの異議申し立てです。身分に縛られた社会では異例のことですが、願いは聞き届けられ、フランツは自分の子孫に「処刑人の剣」ではなくて「医療家用のメス」を手渡すことができるようになりました。
 社会的に蔑視される身分の人が、「誠実な執行者」を貫くことで社会からの尊敬を勝ち得ていった過程を、著者は淡々とした記述が続く日記から読み取っていきます。時代と個人とその関係をここまで詳しく語ってくれるとは、これはなかなかの労作です。