日本の場合「黒船」に乗っていたのが外交目的を持った軍人だったから開国となりました。では「黒船」に乗っていたのが、別の種類の人間だったらどうなっていただろうか、なんてことを私は夢想します。たとえば……侵略目的の軍人、観光客、人類学者、貿易商人、冒険家、難民、亡命者、宣教師、爆買い目的の中国人……そのどれでも、今の日本とは違う日本になっていたような気がします。
【ただいま読書中】『重耳(下)』宮城谷昌光 著、 講談社、1993年(95年11刷)、1553円(税別)
しかしこれだけ長い作品を書き下ろしとは、すごいですねえ。それでもすいすい読めてしまい、惜しいことに最終巻です。
晋ではクーデターが起き、君主不在状態になってしまいます。そこに当時はまだ小国だった秦が介入しますが、重耳は動かず、三男の夷吾が帰国して王となります。しかし夷吾は不徳の人で、秦に対しては忘恩の態度を取り、ついに秦との戦争に。晋は秦の1.5倍くらいの軍を持っているのですが、そこで夷吾は見事なばかりの敗北を喫してしまいます。それで悔い改めたら良いのですが、敗北の悔しさは夷吾の悪政に拍車をかけます。まず“ライバル”重耳に対して刺客を派遣。秦に対しては不誠実な遁辞を構え続けます。刺客の存在を知った重耳は、移動を開始します。目的地は、当時の最強国、斉。斉の桓公は当時の覇者でしたが、それを成就させたのは名宰相である管仲。しかし、管仲はその年に死んでいました。そこに重耳が行けば、どのような扱いを受けるか? もしかしたら宰相に採用されるかもしれません。ただしそれは、晋には戻らない、ということを意味します。道中では飢え死にしかけるほどの辛い目に遭いますが、やっとの思いで辿り着いた斉で重耳は厚遇されます。
重耳の態度は不思議です。父や弟から暗殺者や刺客を差し向けられても、抵抗しません。せいぜいの抵抗は、逃走のみ。さらに道を外れた行動を絶対にしようとしません。非常に窮屈な態度に見えますが、春秋時代には「人事を尽くして天命を待つ」の「人事」そのものも「天道に則った行動」である必要があったからでしょう。我意によって非道な行為をしたものは、必ず天によって裁かれる、という信念を重耳は持っていたかのように私には見えます。これは、天に対してひたすら従順な態度、とも言えますが、ひっくり返せば、「これをきちんと評価できないのなら、天は怪しいぞ」と強く出ている、とも言えそうです。
重耳一行の流浪の旅は続きますが、この旅自体が、重耳個人だけではなくて、「天下」の形勢に微妙な影響を与えていきます。重耳一行を目撃した人は何らかの影響を受けますから。また、重耳の家臣団もそれぞれが成長し、何かあったときに重耳が相談をすると、それぞれが違うことを言うようになります。各人の個性を発揮し、それぞれの人間が最善だと思うことを言っているのです。すると重耳には「選択の余地」が生じ、さらにそこに自分の考えをつけ加えることが可能となります。独裁制の中の民主主義、といった趣です。
もしも「天意」を信じる人間が過半数いたら、その社会では「天意」は“実在のもの”として機能します。そして、春秋時代はそういった社会だった、ということが、本書には活写されています。
時代小説やテレビドラマで、舞台は昔なのに、そこに登場する人物が全員現代の価値観で動いている(頭にちょんまげは乗っているが、それは“カツラ”にすぎない)というものがけっこうあります。もちろんその方が登場人物の動きや判断についての違和感を視聴者は感じなくてすむのですが、それだったら別に舞台が過去である必要はありません。「現代人の物語」なのですから。その点この作品は“異世界”を現代人がちゃんと味わうことができるようにきちんと“調理”をしてありますが、その本来の味わいを壊してはいない、という絶妙の一品でした。ごちそうさま。