「癒やされたい」「癒やされた」はありそうですが、「癒やしてやりたい」はあります?
【ただいま読書中】『古代の女性官僚 ──女官の出世・結婚・引退』伊集院葉子 著、 吉川弘文館、2014年、1800円(税別)
唐の律令制度で「女官」は後宮で皇帝の「家」のために奉仕しましたが、日本の律令での「女官」は「行政システムの一部」でした。この違いは、律令以前の古代日本での「女性の役割」が直接反映されたもの、つまり古代日本では「まつりごと」に女性が深く関わっていたことがわかるそうです。
女官はもともとは大王直属の職員でした。宮人(みやひと)と男女の区別なく呼ばれ、地方の豪族から出仕していました。十二の官司がありますが、たとえば女官の「内侍司(ないしのつかさ)」は男性官司の「侍従」「大納言」『少納言」「内礼司」、女官の「蔵司(くらのつかさ)」は男性の「内蔵寮(うちのくらのつかさ)」に相当していました。大化の改新前には、大王と地方豪族はこういった人と人の結び付きで政治関係を維持していたようです。これを研究用語では「仕奉(しぶ)」と呼ぶそうです。人材を出す方は、家の名誉でありかつ中央との結び付きから実利が期待できます。当然“使える人"を選択したことでしょう。
天武天皇は即位の年(673年)に中央豪族の出身法を定めました。内容は簡素で、「男子は最初はすべて「大舎人(おおとねり)」に任官、能力を見てその後の配属先を決定する。婦女は、夫の有無や年齢は無視して、勤務評定は男性官僚と同様にせよ」。夫の有無がわざわざ書かれているということは、天皇の性愛の対象ではなくて官僚としての採用という意味であり、さらに勤務評定は男女平等です。今の日本でせっせと女性差別をやっている人は、天武天皇に叱られちゃいますよ。さらに「女性の出仕は『氏』による」という規定も作られました。「氏女(うじめ)」の誕生です。氏が存在するのは、上流階級です。さらに大宝令は、各国の郡を三つに分け、そのうち二つから兵衛(男性)を、一つから采女(女性)を出仕させるように定めました。上流だけではなくて郡司の一族(中流から下の豪族)の子弟とも天皇は結び付きを保とうとしていたのです。采女は「公式の職員」で、たとえば下総の采女が都に上る(あるいは故郷に戻る)途中に駿河で税金から食糧を給された記録が正税帳に残されています。
集まった女官は後宮十二司のどれかにまず配属されますが、「薬司(くすりのつかさ=天皇の医薬の管理)」「兵司(つわもののつかさ=兵器の管理)」「掃司(かにもりのつかさ=諸行事で天皇関係の設営を担当)」「酒司(さけのつかさ=醸酒)」など、現在の“常識"からは「これは女の仕事か?」と言いたくなるものも混じっています。21世紀の方が男女の差については“保守的"になっているのかな? ちなみに「水司(もいとりのつかさ=天皇の水や粥を管理)」「膳司(かしわでのつかさ=食膳に奉仕、毒味)」「縫司(ぬいとののつかさ=衣服の裁縫)」など“女性らしい"職種もありますが、こちらにも他の職種と同様男性官僚もきちんと配置されています。
配置だけではなくて、実際の労働現場でも、男子禁制とか女子禁制とかではなくて共同で労働していたことが延喜式や儀式書類からわかるそうです。古代中国では男女共同労働は考えられないことでしたが、その理由としては、古代日本では女性の力が強かったことや宦官が日本に導入されなかったことがあるでしょう。
勤務評定の結果が良ければ「出世」をします。無位から始めてこつこつと昇進して最終的に五位(貴族としての扱い)に到達した女官もいます。しかし、地方豪族出身女官は、中央貴族出身者の位階を越えることはできない、という「ガラスの天井」も存在していました。
女官は恋もするし結婚もしました。そういえば『枕草子』にもイケメン青年貴族にきゃぴきゃぴ言ったりとか夜這いをかけられたりするシーンがありましたね。また、中央貴族が自分の妻を後宮に送り込む例もあり、「後宮」という言葉についてちょっと考え直す必要はありそうです。
平安時代になり、様々な政治改革が断行されましたが、その一つに「氏女の廃止」を狙ったとおぼしきものもありました。また、中央集権が進んだためでしょう、地方豪族との結び付き強化をねらった采女も廃止の方向になりました。そして「後宮」は、「天皇直属の機関」から「皇后をトップに戴く組織」へと変貌していき、「女官」は「女房」に変化します。あ、やっと私にはおなじみの「後宮」が出てきましたが、そこで本書は終わってしまいます。この後宮が室町からどのように変わり、江戸時代の大奥とつながっているのかいないのか、知りたいことはいろいろあります。さて、こんどは何を読めば良いのかな。