1986年、アイドルの岡田有希子が投身自殺をしたとき、その現場写真がでかでかと報道されました。その全身が写った写真の影響か、若者の後追い自殺が連続してそれが社会問題となり、それから「死体の写真」は神経質なくらい報道されなくなっていきました。殺人があって現場のテレビ中継があっても、こちらに見えるのはブルーシートだけ。つまり「死体」は「隠蔽されるべき存在」です。しかし「なんとか推理劇場」や「名探偵コナン」などでは「死体」はいくらでも平気で登場します。皆さん、死体は、見たいの?見たくないの?
【ただいま読書中】『死体は誰のものか ──比較文化史の視点から』上田信 著、 筑摩書房(ちくま新書1410)、2019年、800円(税別)
著者は「日本」「中国」「チベット」「ユダヤ教」「キリスト教」でのそれぞれの「死体」についての考え方を紹介し、私たちが持っている死生観や死体観が実際にはどのようなものかを明らかにしようとします。
清の時代、「図頼」と呼ばれる「死体を用いた恐喝」が中国では広く行われていたそうです。『平家物語』に僧兵が神輿を担ぎ出して強訴する、がありますが、そんな感じで自殺・病死・殺人などで発生した死体を金持ちの所に持ち込んで「帰ってほしければ金を出せ」とやるわけです。
漢族の文化で「死体」は「危険物」でした。だからその危険を取り除くために、親族の序列や葬送の儀礼が厳しく定められています。その正規の手順が踏まれないと、「危険物」としての死体はいつまでも“そこ"に残されることになります。だから貧しいものや身寄りがないものが亡くなったときには、共同体が金を出し合って「正規の葬送」を執り行いました。その文化的な背景を“逆用"したのが、貧乏人による「図頼」だったのです。
正規の葬送で葬られた死体は白骨化しますが、これはもう“清められた(「御先祖」として拝まれる)もの"です。しかしまれに白骨化しない(屍蝋化した)死体が出現し、「キョンシー」と呼ばれます。映画「霊幻道士」でのキョンシーは間違った方法で葬られた死体のなれの果てでした。で、この映画では「キョンシーに殺された人もまたキョンシーになる」という「アメリカゾンビ映画の法則」が採用されていますが、そこで「屍毒」というものが仮定され、道教でも用いる餅米によって屍毒が吸着できるのでキョンシーと戦える、となっています(私が覚えているのは、呼気に含まれている「生気」にキョンシーが反応するので、戦うとき(あるいはやり過ごすとき)には呼吸を止める必要がある、という“法則"の方です)。ただ、凡百のゾンビ映画と比較すると、「なぜキョンシーが生まれるのか、キョンシーと戦うためにはどうすればよいか」をきちんと説明しようとしている分だけ“真面目"だと私は感じます。
チベットの死体観も日本人から見たら独特です。鳥葬(天葬)は知っていましたが、もう一つ「水葬」をするグループもあり、そちらは死体を川に流して川魚に食べさせるので、「水葬」の人たちは魚を食べないのだそうです。魚が祖先の生まれ変わりかもしれませんから。天葬は鳥の助けを借りて霊が天国に行くことを願うのですが、このとき鳥が食べやすいように死体を切り刻むことに猟奇的興味を示す人が多い(取り囲んで騒いだり隠し撮りをする)ことが問題となっているそうです。もし日本にやって来た外国人(土葬派)が「日本人は遺体を焼き肉にしている〜」とか斎場でどんちゃん大騒ぎしたら不愉快なのと同じことを、チベットでやって恥じない人間がいる、ということです。ともかく、チベットの葬礼には、チベットの風土と歴史(それも仏教伝来前からのもの)が強い影響を与えています。
「死体そのものに執着しない」点で、チベットの仏教徒とユダヤ教やキリスト教徒は似ています。ユダヤ教では死後の復活があるので、死体は丁重に扱われます。しかし旧訳聖書では死体はちりに返るものですから、死体に対して「自分の所有権」を主張するような態度は取らないのです。
日本で最初の「死体」は、『古事記』の黄泉の国でのイザナミノミコトの描写でしょう。国作りの神話のはずなのに、けっこうはじめから「死」が登場したのは、初めて読んだときにはけっこうショッキングでしたっけ。また、死後にすぐ弔わず、長ければ3年短くても数日は死体を安置し続ける「殯(もがり)」の風習もありましたが、これも今の日本人には耐えられないのではないかな。
そして本書のタイトル「死体は誰のものか」。20世紀末の中国では、死体は親族のものでした。ユダヤ教やキリスト教では神のもの、あるいは、復活後は自分のもの。では、日本では? まさか「相続財産」? 法律的にはけっこうややこしい議論があるそうですが、心情的には「遺族」のものとしたいですね。そうすることで「死体」は「遺体」になれるでしょうから。