【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

ものも話も人がもたらすもの

2015-09-19 06:56:02 | Weblog

 弥生時代の日本の鉄器に、中国長江流域由来の鉄(不純物や同位元素の分析でどこの鉱山の出身かがわかるそうです)がある、という研究結果を聞いたことがあります。鉄器が来たということは、人も来ているし、だったら神話(の元)がやって来てもおかしくはないだろう、と思いつつ私は本書を読み始めます。

【ただいま読書中】『日本神話と長江文明』安田喜憲 著、 雄山閣、2015年、2000円(税別)

 著者は、柳田や折口の民俗学は「男民俗学」だった、と言います。それに対して女の視点からの「女民俗学」が吉野裕子の研究だった、と。そういえば以前読んだ『気候が文明を変える』(安田喜憲)にも、多神教では「地母神」がトップだが、一神教になると「天にまします父なる神」がトップに来る、とありましたっけ。
 さて、日本神話研究にも「男の視点」が色濃く投影されています。そりゃ、研究者が男ばかりだったら「男の常識」が当然の前提として設定されちゃいますよね。さらに、江戸時代には江戸時代の、戦前には戦前の“常識”も投影されます。ところが、戦前の研究者であるにもかかわらず、戦後になっても著書の根本的訂正をせずにすんだのが津田左右吉でした。皇国史観(記紀の記述は「事実」である)に支配された世界で「記紀は批判的に事実と事実でない部分を科学的に分析した上で神話研究をするべきだ」と説いていたのです。
 本書には微笑ましい行きすぎもあります。「史料は文字通りに読むべきだ」と主張するあまり、古事記に登場する「ワニ」は文字通り「ワニ(クロコダイル?アリゲーター?)」と読むべきだ、と著者は言うのですが、ワニは「鮫」の古語だし、現在でも中国地方には方言として「ワニ(=サメ、フカ)」が残っていますからこの「ワニ」を「鮫」と読むことに私は何の問題も感じません。わざわざ中国や東南アジアに「ワニ」が住んでいることにしなくてもいいのではないかな。
 著者はギリシア神話を「畑作牧畜民の神話」、日本神話を「稲作漁撈民の神話」と定義します。だから「草薙剣」の物語も「ペルセウス・アンドロメダ型の神話」ではなくて「豊穣の剣」と解釈するべきだ、と言います。そしてこの物語で語られているのは、長江流域から稲作漁撈文明が天端他事実と、やって来た民が縄文人(の子孫)と戦いながら日本を支配していった歴史ではないか、と。
 2500年前の雲南省には滇(てん)王国がありました。出土する彫刻類にやたらと目立つのは、蛇。その中に、大蛇に生贄として捧げられる女性の彫像があります。そのまんま、八岐大蛇?
 4200年前の気候変動によって北方民族(現在の漢民族の祖先)が中国に流入し、長江文明は衰亡しました。長江文明の人々は雲南省や福建省に追われ、さらに海岸部の人はボートピープルとなって台湾や日本に渡ります。それから約1000年後、また気候は寒冷化し海面が低下します。全世界的な小氷期です。この気候変動によって、ミケーネ文明は崩壊し、中国では殷が滅びた、も『気候が文明を変える』にありましたっけ。
 しかし、本書の参考文献のところに、著者自身の著作がずらりと並んでいるのは、ある意味壮観です。


赦しの心

2015-09-18 06:52:47 | Weblog

 何か非道なことがおこなわれたあと、「赦し」を説く人が必ず現れます。もちろん復讐をしても何かが解決するわけではないから最終的にはどこかで「赦し」が必要になるのはわかります。ただ、「赦し」が「許した側」にもプラスの効果を示すのは「正義がきちんと機能してから」ではないでしょうか。不正義が横行している社会で「どんな目に遭ってもとにかく赦せ」と他人に要求するのは、「不正義を容認しろ(自分は悪事を働くから、それを皆は許すべきだ)」と主張しているだけのようにも見えます。

【ただいま読書中】『重耳(上)』宮城谷昌光 著、 講談社、1993年(96年17刷)、1553円(税別)

 まずは悠々と古代中国の歴史についての概説です。3000年くらい前に周が中国を統一しますが衰退して春秋時代に。各地に群雄が割拠しますが、その中に晋の分国の曲沃がありました。曲沃は当時の中国の常識からはちょいと異色の存在でした。そこに蛮族の孤族が属国になるという申し出を。王の称は皇太子に子がないことから狐氏の娘を息子の嫁としてもらうことにします。しかしこの婚姻は、各人に不吉な予感を抱かせながらの出発となりました。輿入れした狐氏の姉妹が産んだ内の次男が、のちの重耳です。
 宮城谷さんの言葉使いは独特ですが、それが「“今”は春秋時代だ」という雰囲気を盛り上げます。さらに、当時の常識を“当然のもの”として扱うので、読者は否応なく古代中国に“生きる”ことを強いられます。まあ、強いられる、というか、喜んでそこの住人になってしまうのですが。
 三兄弟の内、人気のある長男と優秀な三男に挟まれて重耳は影が薄い存在でした。家臣団も、重臣ではない家の次男以下ばかりという“厄介者”の集団です。しかしそのまとまりは大変良かったのが特長です。
 曲沃と晋は、分家と本家の関係なのに、お互いを滅ぼすことを父祖伝来の宿願としていました。時節至れりと判断した曲沃は周王室に工作をし、雪の中、晋に向けて出兵します。しかし複雑な王宮政治の渦巻きの中、守兵がほとんどいない空っぽの曲沃に、他国の軍勢が迫ります。寡兵でそれをいかに上手くいなすか、それが留守番部隊の長である申生(重耳の兄)に課せられた課題です。
 この曲沃と晋の戦いでは、晋の邑である翼の包囲戦の描写だけではなくて、曲沃に対する軍勢への戦い、外交での交渉(ことばによる戦い)などが重層的に書き込まれて、物語の厚みを増しています。そして、その厚みの中で重耳が成長していく姿が印象的です、というか、それまではこの物語の中では影が薄くて、ほとんど登場していなかっただけなのですが。


ただではない馬鹿

2015-09-17 08:23:42 | Weblog

 ただの馬鹿が好きほうだいした場合は周囲が迷惑するだけですが、権力を持った馬鹿の場合、国中が迷惑することになります。

【ただいま読書中】『変わりゆく日本の大都市圏 ポスト成長社会における都市のかたち』日野正輝・香川貴志 著、 ナカニシヤ出版、2015年、3200円(税別)

 20世紀後半は、人口爆発と都市化の時代でした。あまりに人が集中した大都市では人口の分散(郊外化)が進みましたが、1990年代から「都心回帰」が始まり、2000年代にもそれは継続しています。
 東京(首都圏)では、人口増加が著明です。特に都心ではどんどん人口が増えています。特長は、都心に近い地域の方が人口回復が大きいことと、東京生まれの人が集まってきていること。かつての日本では「地方」から「東京」に人口が流れましたが、最近は東京の郊外から都心へと人口が流れているようです。かつてのベビーブーマーは、若い内はまず都区部で賃貸住宅に住み、やがて郊外に持ち家を求めました。ところが彼らの子供(第二次ベビーブーマー)は、都区部に持ち家を求めることができるようになっているのです。ただし、若い世代には現在、未婚化・晩婚化が進んでいます。これで住宅を求める行動がどう変わるのか(どこに住居を求めるか、の場所の問題と、どのくらいの大きさの住居を求めるか、の問題が変化すると考えられます)、その進展はとても興味深いものです。
 私が育った市では、数十年前に郊外がどんどん住宅団地として開発され、市の中心のスプロール化が懸念されていました。通勤圏はどんどん拡大し、隣の県まで含まれるようになっていましたっけ(その頃東京では、静岡から新幹線通勤、なんてことも言われていました)。しかし今では、郊外の住宅団地は高齢化が顕著で、市内に次々マンションが建築されています。つまり東京と同じく「都心回帰」が起きています。
 本書には、京阪神・名古屋・仙台・広島などの具体的な調査例が紹介されていますが、ここで見えるのは「社会構造の変革」です。かつての「核家族」さえすでに日本では成立しなくなっていて、独居・ひとり親など、昔の日本では「まともな家族」とは認められなかった「家族」が日本の社会でどんどん増えている、その結果として、人口の分布と動態に変化が生じているのです。さらにこれからは、高齢者向けの住宅が大量に供給されることになるでしょう(実際にその動きは始まっています)。これによって日本の人口分布はまた大きな変動を示すはず。
 私が気になるのは、過去のイメージにとらわれずに日本人が“近い未来への準備”ができているのか、ということです。近い未来、というか、すでに現在の話なのですが。


柔らかい缶詰

2015-09-16 06:26:19 | Weblog

 レトルト食品は「柔らかい缶詰」と言えそうですが、なぜかカレーとかシチューとか牛丼などの「料理」が多くて、缶詰のような様々な素材が揃っている、という状況ではありません。もっと薄くて気密性と遮光性の高い包装材ができたら、たとえば「レトルトの尾頭付きの鯛(調理済み)」なんてものが登場できないでしょうか?

【ただいま読書中】『缶たん料理100』黒川勇人 著、 講談社、2015年、1000円(税別)

 缶詰をそのまま食べるのもよいですが、ちょっとだけ手を加えて“缶たん”な料理を“缶成”させよう、という本です。
 本当に手順は簡単で、たとえばとりあえずオープンサンドイッチやカナッペにする、とか、ご飯に載せて丼、あるいは炊き込みご飯に。鯛そうめんの代わりに和風シーチキンを使ってシーチキンそうめん、なんてこれは絶対美味いでしょうね。独身で金がなかった頃に、水煮のサバ缶やシーチキン缶に刻んだ玉葱を混ぜて増量してそれにちょいとマヨネーズ、という“料理”を作ったりしていましたが、あれよりはもう少し“高級”路線が並んでいます。
 おっと、笑っちゃうのは、丸ごとミカン(そんな缶詰があるんですね)の実だけを冷凍庫に入れたら「冷凍ミカン」という“レシピ”。いや、たしかに一手間かけていますが。
 保存が利く料理素材でしかも加熱もすんでいる、ととらえたら「缶詰」の可能性は大きいでしょうね。この世には「缶詰バー」なんてものもあるそうですが、「缶詰料理番組」なんてものもできないかしら。スポンサーが難しいかな? 


読んで字の如し〈草冠ー16〉「芽」

2015-09-15 07:00:56 | Weblog

「夏芽」……夏の芽生え
「花芽」……花のようなかたちの芽
「独活芽」……一人で生きている芽
「新芽」……古い芽の立場は?
「幼芽」……ベテランの芽の立場は?
「赤芽細胞」……赤い芽がはえる細胞
「腎芽腫」……腎臓に芽生えた腫瘍
「芽が出る」……まだ実はなっていない
「芽を摘む」……実をならせない
「芽立つ」……芽がいっせいに旅立っていく

【ただいま読書中】『ビジュアル大宇宙(下)太陽系の謎に挑んだ47の発見』ジャイルズ・スパロウ 著、 渡部潤一 日本語版監修、日経ナショナルジオグラフィック社、2014年、2750円(税別)

 上巻では「宇宙」の謎が次々登場しましたが、下巻では「太陽系」です。スケールは小さくなったようですが、“近く”にあるだけ研究の厚みや深さが半端ではありません。
 太陽系は「星雲」の塵が集まってできたという「星雲説」を最初に唱えたのは1734年のスウェーデンボルグ。その説を発展させたのがカントとラプラスでした。しかしこの星雲説には太陽の自転速度が現在のものよりはるかに高速になる、という“欠陥”があり、しばらく無視されました。きちんと説明できるようになったのは1970年代になってから。意外に新しいんですね。
 太陽が光るメカニズム解明に大きな影響を与えたのは、地質学でした。20世紀初めに地球の寿命は10億年以上とわかり、そんなに長期に“燃え”つづけるためには単なる化学反応以外の説明が必要になったのです。そこにアインシュタインの相対性理論が登場。核融合の理論が立てられ、さらに太陽大気の観測で水素が融合してできるヘリウムが発見されます。
 太陽の観測では、聞き慣れない言葉が登場します。たとえば、太陽表面の振動を観測・計測する「日震学」。内部構造を観測するためにはニュートリノが使われます。昔懐かしい黒点観測も健在です。
 太陽系そのものに関する研究で私も参加できそうなのは、隕石の観察です。19世紀中ごろに「隕石には様々なタイプがある」ことは気づかれていましたが、隕石が原始太陽系に関する情報の宝庫であることに天文学者や地質学者が気づいたのは最近2~30年のことです。それにしても「これは火星由来の隕石だ」なんて、最初にどうやって確定したのでしょうねえ。
 地球の水がどこから来たのか、も面白いテーマです。彗星の水分は重水素が多すぎるが、氷結した小惑星は地球の水とほぼ同じ成分だから、小惑星の天体衝突でもたらされたのではないか、という仮説は、雄大で私のお気に入りです。
 月の誕生に関しても、「双子説」「分裂説」「捕獲説」と様々な仮説が唱えられてきました。それらをあっさり葬ったのが、アポロがもたらした月の石でした。1970年ころから「巨大衝突説」が登場し、84年ころに定着します。この説は進化を続け、現在では巨大衝突の痕跡(ある程度の大きさのかけら)がラグランジュ点に残っている可能性が囁かれています。うわあ、調査に行きたいなあ。月ができたときの物的証拠ですよ。
 各惑星の写真も、美しいものです。小惑星や彗星、海王星でさえ“アップ”の写真があるのです(1989年にボイジャー2号が接近飛行)。ちなみに海王星は暴風の世界なんだそうですが、そこにはダイヤモンドの雨が降っているそうです。
 準惑星に格下げされた冥王星はまだアップの写真はないようで、ハッブル宇宙望遠鏡の写真が載っていますが、これもそのうちに近くで撮った写真を見ることができるでしょうね。


手遅れの指摘

2015-09-14 07:12:25 | Weblog

 今回の関東の洪水で、行政の対応が後手後手だったという指摘がされています。そういえば昨年の広島の土砂災害でも「市長が寝ていた」とか「避難指示が遅かった」と指摘されていましたっけ。
 ところでこういった指摘は、何のために行うものでしょう? 「犯人捜し」?それとも「再発予防」? もし再発予防だったら、座り込んで「犯人捜し」を熱心にやっているよりも、立ち上がって日本中でできる限り厳しい想定での避難訓練を今日からでもやっておいた方が良いのでは? 次の大災害がいつどこで起きるか、誰にも確言はできないのですから。ついでですが、大雨による大洪水と大地震とが同時に起きた場合、なんて想定での避難訓練もしておいた方が良いのではないか、と私は思っています。

【ただいま読書中】『ビジュアル大宇宙(上)宇宙の見方を変えた53の発見』ジャイルズ・スパロウ 著、 渡部潤一 日本語版監修、日経ナショナルジオグラフィック社、2014年、2750円(税別)

 かつては地球が宇宙の中心でした。次に太陽が宇宙の中心になりました。おっと、地球以外のすべての星がすべて太陽を中心に回っていて、その太陽が地球の周りを回っている、という考えもありましたっけ。惑星の軌道は楕円ではなくて真円でした。太陽までの距離は測定不能でした。他の恒星までの距離は測定不能でした。他の星の成分は測定不能でした。銀河はこの宇宙に唯一の存在でした。
 さらに研究はどんどん進み、様々な謎が次々解明されます。ところが困ったことに、一つの謎が解明されると別の謎が登場するのです。本書の制作中にも、次から次に大発見があって、著者は本当に困ってしまったそうです。
 何版というのかな、20cm×25cmくらいの大きな本に、コンパクトに情報が文字と写真やイラストでぎっしりと盛り込まれています。どの1ページを見ても、その背後に膨大な研究の歴史と山のような参考文献があることが見て取れますが、素人は単にビジュアルの美しさに息をのむだけ、という実に贅沢な楽しみ方も許されています。「超新星爆発」のハッブル宇宙望遠鏡の写真なんか、「絵」として家に飾りたいくらいです。


マイケルはミカエル

2015-09-13 08:29:36 | Weblog

 ライオネル・リッチーはマイケル・ジャクソンのことを、50年間限定で神が地上に遣わした天使、と言ったそうです。

【ただいま読書中】『マイケル・ジャクソン』西寺郷太 著、 講談社現代新書2045、2010年、740円(税別)

 子だくさんのジャクソン家で、貧困からの脱出のための野望「ジャクソン・ファイブ」が結成されたのは、マイケルが5歳の時でした。父親のジョーはマネージメントの才能がありましたが、子供たちへのトレーニングは過酷で、もろに児童虐待でした。数年後にジョーの念願叶ってモータウンレコードから「ジャクソン・ファイブ」としてメジャーデビュー。すぐさま人気が沸騰し、マイケルは「普通の少年時代」を奪われます。もちろんそれは、ジャクソン家全員に言えることでした。
 ジャクソンファイブがデビューした1969年、伝説となった「ウッドストック」が開催されます。翌70年サイモンとガーファンクルが解散を表明。彼らの「明日に架ける橋」は全米チャートトップを6週間制覇。そのトップを奪ったのが、同じく解散を表明したビートルズの「レット・イット・ビー」。そしてそれをトップからたたき落としたのが、ジャクソン・ファイブの2枚目のシングル「ABC」でした。モータウンは(マイケルが変声期を迎える前に)稼げるだけ稼ごうと6年間で469曲もの録音をジャクソン・ファイブ(とマイケル)に強いています。
 75年ジャクソン兄弟はEPIC/CBSにレーベル移籍。ただしモータウンの社長の娘と結婚していた三男のジャーメインはモータウンに残留します。おっと、「ジャクソン・ファイブ」の名前も。「ジャクソンズ」となった兄弟は、マイケルを中心として、自分たちで作詞作曲することを目指します。移籍後3枚目のアルバム「ディスティニー」がやっとヒット、大喜びのジャクソン家ですが、マイケルは「自分のアルバム」を出したいと強く願うようになっていました。周囲の反対を押し切り、映画「ウィズ」で出会ったクインシー・ジョーンズと組んで、名作「オフ・ザ・ウォール」を生み出します。さらにマイケルは、自分が映像のセンスを持っていることに気づき「ショート・フィルム」(ミュージック・ビデオ)を自分で制作しようと考えます。そして「スリラー」。
 あのビデオは衝撃でしたね。ダンスと歌とストーリーが見事に凝縮されていて、本当にいいものを見た、という満足感が得られましたっけ。
 マイケルはスーパースターになり、周囲をコントロールして自分が思うようなアルバムを制作できるようになります。しかし、マイケル自身をコントロールするものはいませんでした。自分自身にさえ自分のコントロールは困難だったのです。マイケルは「孤独」に包囲されてしまいます。そこに登場したのが「ある家族」でした。
 スーパースターにはさまざまな「伝説」がつきまとうものですが、マイケル・ジャクソンには、特に「誤解」に基づく伝説がついて回っているようです。それを著者は丹念に調査します。たとえば「ウィ・アー・ザ・ワールド」でマイケルがスーパースターたちをバックコーラス扱いしようとした、という話を聞かされ、あの歌の共作者であるライオネル・リッチーが仰天して著者に語った“真実”は印象的です。また、「白人にあこがれて美容整形を繰り返した」「肌まで白くした」というのも「誤解」です。さらには「少年性的虐待疑惑」。これは「誤解」ではなくて「冤罪」。
 著者はこう述べています。「FBIを含むたくさんの捜査資料が公開された今になっても、まだマイケルを「性犯罪者」だと断言し続ける人は、かなり強い意志を持ち、リスクを負って発言をされているのだと思う。なので僕はそういう方々の主張を退けるつもりはない。むしろ、ぜひ意見を戦わせてみたいと思っている。膨大なヴィデオ、新聞、雑誌など、証拠は残っている。言い逃れは出来ない。情報発信する側のモラルは保たれたのか? 本当にそれらの報道は正しかったのだろうか? 今こそ、再検証の時である。」
 ちなみに、著者は単なる「ファン」ではありません。たとえば「ウィ・アー・ザ・ワールド」が「時代を変えた」ことを、データを分析することで明確に示します。あのプロジェクトに参加したビッグ・アーティストたちは、それ以後ぱたりとヒット曲を出せなくなったのです。それは「音楽シーンの変化」「アナログレコードからデジタルへの移行」などに後押しされた「時代の変化」による現象だったのでしょう。その変化を起こした“エンジン”の一つはマイケル・ジャクソンでした(家庭へのビデオの普及、21世紀になってからのネットでの画像配信、などを先にきちんと読んで行動をしています)。しかし時代は冷酷にも、そのマイケル本人も乗り越えて進んで行ったのです。「時代」は「善悪」などとは無関係に動くものなんですね。


「進化」ということば

2015-09-12 07:03:59 | Weblog

 「進歩」とか「前進」という響きも感じますが、「進化」は単に「その時の環境に最適の種(あるいは上手く適応できた種)が自然選択をされる(生き残る)」というだけの現象です。「優秀だから生存競争に生き残る」という「(最)適者生存」は、ダーウィンよりも早く(『種の起源』より5年早く)ハーバート・スペンサーが『生物学原理』で発表しています。自然選択と現象の説明は似ていますが、思想は全然違います。適者生存は生存競争の勝者を讃える態度ですから。ダーウィンは「あ、運がよかったね」です。

【ただいま読書中】『破壊する創造者 ──ウイルスがヒトを進化させた』フランク・ライアン 著、 夏目大 訳、 早川書房、2011年、2500円(税別)

 進化論について研究していた著者は偶然「共進化」ということばに出会います。ウイルスはその宿主である哺乳類の進化に合わせて自分自身を進化させてきた、という考え方です。
 動物と動物、あるいは動物と植物には「共生」という現象があります。ならばウイルスと哺乳類にも「共生」があるのではないか。著者は多くの科学者たちにインタビューしながら、そのアイデアを深化させていきます。
 著者のアイデアは、「進化」には「ダーウィン的進化(種に対する自然選択)」と「共生的進化(ウイルスと宿主の「関係」に対する自然選択)」があり、その二つが複雑に絡み合いながら「進化」が行われているのではないか、というものです。さらに著者は一見ウイルスにも宿主にも不利益しかもたらさない「攻撃的共生(ウイルスが宿主を殺すタイプの共生)」が「共生的進化」を実現するために重要らしい、と考えます。“自然淘汰”の手続きとして。
 2001年に「ヒトゲノム解読計画」が成功裡に完了。これは科学的にはめでたいことですが、不思議なこともわかりました。人のゲノムには遺伝子情報としては全く無意味な広大な領域があり、その中にはかつて過去に感染したウイルスの名残とされる領域(HERV)が全体の9%も含まれていたのです。そして著者は「レトロウイルスによって起きるコアラの白血病やリンパ腫」を知ります。このウイルスは内在性(外からやって来たのではなくて、コアラの細胞の中から登場した)でした。本来HERVは不活性です。すると「内在性の途上にあるウイルス」が発見されたことになります。しかもコアラがこのウイルスに侵入されてからまだ100年も経っていないようです。やがてこのウイルスは、コアラのゲノムに融合していくのかもしれません。
 「ゲノムの融合」で身近な例は、10億年前の「好気性細菌」とその細菌が共生していた単細胞の「プロチスト」との融合です。この細菌がミトコンドリアの御先祖様です。ミトコンドリアは独自の遺伝子をまだ持っていますが、重要な部分は宿主の細胞のゲノムに組み込み、核内の遺伝子はミトコンドリアの遺伝子と協力して働きます。
 おそらくこの「融合」は、シンプルな過程ではなかったはずです。“異物”に侵入された生物は抵抗しますし、ウイルスは免疫に負けないように細胞を攻撃します。しかしやがて「淘汰」が終了すると、ウイルスに耐える生物だけが生き残り、ウイルスと共生することになります。そして、ゲノムにウイルスを組み込んだ生物は、以前とは“違う”生物になっているはずです。そしてそのように「違ってしまう」ことは「進化」ではないでしょうか?
 様々な動物についてのゲノム研究、自己免疫、癌……「共生」の研究はどんどん広がっていきます。著者が最初に共生について発表したときの周囲の反応は冷ややかなものでしたが、時代は少しずつ変わっていきます(著者(たち)が変えていきました)。面白いのは、共生についての学界が、様々な分野の科学者の“共生”の場になっていることです。「共生」を理解するためには「生物」について総合的な見地が必要だから、当然と言えば当然なのですが。
 最後のあたりに、ちょっとショッキングな研究が。X染色体を詳しく調べると、人とチンパンジーが共通の祖先から枝分かれしたのは今から730万年くらい前で、それから100万年くらいの間は交配を続けていて、630万年前くらい前に完全に分岐した(交配をしなくなった)、ということがわかった、というのです。この異種交配も、進化で重要な役割を果たしているようです。そして「ラマルク(獲得形質が遺伝する)」の復活。いやあ、これ、本当?と言いたくなります。セントラル・ドグマの立場は?


コンセント

2015-09-11 06:48:22 | Weblog

 日本の100ボルトのコンセント(アウトレット)は、二つのスリットの形が微妙に違います。どちらが大きいか、皆さん、ご存じです? そしてその理由は?

【ただいま読書中】『鉄塔武蔵野線』銀林みのる 著、 新潮社、1994年、1408円(税別)

 小学校5年生の見晴は、夏休みのある日「鉄塔」の挑戦に気づきます。受けて立とうじゃないか、と愛用のサッカーボールを小脇に、鉄塔に近づくと「武蔵野線75-1」の表示が。この送電線が「武蔵野線」であるらしいことはわかりましたが「75-1」? ではその次の鉄塔は、と行ってみるとそこは「武蔵野線76」。その次は「片山線九」。あれ? さらにその次は……「武蔵野線77」。とうとう見晴は80号鉄塔、そしてその次の終点「櫛流変電所」まで到達してしまいます。
 鉄塔は様々な形をしています。見晴は、男性型・女性型・料理長型・異形などに分類しています。鉄塔の隠れファンなのです。
 さて、武蔵野線の終点はわかりましたが、ではその逆「1号鉄塔」は、どこ? もしかして、秘密の原子力発電所? 見晴は仲良しのアキラを誘って、武蔵野線をたどる冒険の旅に出発します。婆ちゃん鉄塔に改造鉄塔、長身変則型鉄塔……見晴くんは熱心にアキラに鉄塔について語ります。本書にはそのすべての鉄塔の写真も載っているので、それぞれの鉄塔の形の違いについてもある程度はわかります。
 冒険3日目、二人は自転車で出発します。1号鉄塔まで残りは67。一生で数えるほどしかないだろう最も幸せな少年の日の始まりです。しかし、おっさんや少女たちや牛に出会ったり、二人でじゃれたり、「ひがしでん」の儀式をしたり、時間はどんどん経っていきます。空はそろそろ夕方の色になりましたが、鉄塔はまだ30以上残っています。日没。鉄塔は25、24、23。残照の空に23から22への送電線は、広い河川敷を越えていきます。もう遠方の鉄塔群は確認できません。見晴はアキラを帰し、自分は野宿を敢行します。どうしても「1番」を自分の目で見たいのです。
 一つ一つ、まるで巡礼のように見晴は鉄塔をたどります。6、5。午後の太陽の下、見晴はふらふらと進み続けます。巡礼は苦行になっています。4号鉄塔。そこで見晴は捜索隊に捕まってしまいます。あと3つなのに。
 秋。見晴はおとなしく過ごしています。そこに一通の手紙が。
 すぐそこに存在しているのに、多くの人が見落としている存在。国土地理院の地図にはちゃんと描かれているのに、グーグルマップでは無視される鉄塔と高圧線。その「実在するもの」をしっかり見つめることで、この夢のような物語が生まれました。皆さんの家のそばに、鉄塔は立っていますか? 立っているのなら、その形を記憶だけを頼りにスケッチできます?


日本の自殺数

2015-09-10 07:28:06 | Weblog

 かつて「3万人越え」で大騒ぎとなりましたが、もう皆さん忘れていますね。実はこの2年、日本の自殺数はどんどん減っています。もし景気のバロメーターが自殺数(の逆数)だとしたら、アベノミクスは成功している、と言えそうです。

【ただいま読書中】『経済政策で人は死ぬか? ──公衆衛生学から見た不況対策』デヴィッド・スタックラー&サンジェイ・バス 著、 橘明美・臼井美子 訳、 草思社、2014年、2200円(税別)

 不況は健康に悪い、と一般には考えられています。しかし著者が実際に調べてみると、不況は、健康に対してプラス要因もマイナス要因も含んでいました。人を殺すのは、それも大量に殺すのは「間違った不況対策」だったのです。
 著者は、医学・公衆衛生・統計学を学び(さらに一人はホームレス生活も体験し)、医学の世界の基礎研究や臨床研究のように、異なる政策(たとえば「財政緊縮策」と「財政刺激策」)を比較して、どちらが経済に効果があるかだけではなくて、どちらが多くの人を殺したか(あるいは殺さなかったか)、をデータを駆使して示そう、と専門誌に論文を書き続けています。本書はその論文の一般向けの展開です。
 まずは「ニューディール政策」。29年の大恐慌により、世界中はとんでもない騒ぎになってしまいました。ところが意外なことに、アメリカでは29年から死亡率は下がり、景気が回復し始めた33年からまた死亡率が上がり始めたのです。不況により自殺は増えています。しかし交通事故死は大幅に減少していました。実は同じ現象が2008~10年にも起きているそうです。禁酒法は33年に廃止されましたが、33年からアルコール関連の死亡者数はどんと増えています。禁酒法は少なくとも肝臓の健康には良かったようです。そして財政政策。ルーズベルトのニューディールは、州ごとに実施状況に大きなバラツキがありました(リベラルな知事はニューディールに熱心で、保守は不熱心でした)。おかげでその「効果」が比較検討できます。もちろん、統計学の手法を用いて、様々な調整をおこなって公正な比較ができるようにしてから、ですが。すると、ニューディール政策は、経済だけではなくて、公衆衛生の面でも明らかにプラスの効果を示していました。政府が人々の健康を気遣うと、経済の回復にも良い効果があるのかもしれません。実際に、2008年から、イギリスは財政緊縮をおこない、アメリカは財政出動をして(ニューディールほどではありませんが)セイフティネットの拡充に努めました。現在アメリカの景気は回復の兆しがありますが、イギリスはまだまだのようです。これまた「自然実験」として貴重な事例です。
 「社会主義の崩壊」でも貴重な「自然実験」がおこなわれました。「ショック療法(急激な移行)」を目指す国(代表がロシア)と「漸進的改革(ゆるやかな移行)」を目指す国(ベラルーシやポーランドなど)との比較データがあるのです。そこで目立つのは、ロシアの異常な「数百万人の若い男性の死亡」です。社会の急激な変化は、“生贄”を要求するようです。「ショック療法」の国では、人々は「失業」と「セーフティネットの崩壊」に直面しました。これが「死因」です。著者らの論文に対して「ショック療法派」は様々な反論をしていますが、その反論も含めて本書で根拠(データ)付きできちんと論じられています。いくら「自分の理論は正しい」と強く言っても、データを見たらいろんなことは一目瞭然です。ミルトン・フリードマンのように、かつては強硬なショック療法派だったのが「自分は間違っていた」と言える勇気を持った人もいますけれどね。
 1997~98年の東アジア通貨危機で、IMFは融資の条件として財政緊縮を求めました。多くの国はそれに従いましたが、マレーシアは断りました。さて、またもや「自然実験」です。どの国もまずGDPが減少しました。そして、IMFの融資後、貧困率・失業率・自殺率に明確な差が生じました(韓国では「IMFはI’m firedの略」とも言われたそうです)。貧困率の上昇に食料価格の上昇が重なり、乳幼児の死亡率が上昇します。しかし、マレーシアはその危機を乗り切りました。著者はここでこんな教訓を引き出します。「貧困に陥る危険性が高まった原因は不況そのもの。しかしそれが公衆衛生上の大惨事へと発展したのは、緊縮財政でセーフティネットが削られたから」「健康より財政を優先させると、国の発展にとって最も重要な資源──すなわち国民──に危害が及ぶ」。
 この通貨危機はもう一つの“副作用”を世界にもたらしました。IMFに対する強い不信感です。
 そして、2008年のリーマン・ショック。著者の二人はアイスランドに注目します。「公衆衛生の貴重な実験室」として。IMFは相変わらず融資の条件として財政緊縮を求めます。それに対して賛否両論が戦わされ、ついにアイスランドでは国民投票に。国民はIMFに「ノー」をつきつけました。この決定に対してまた賛否両論がありましたが、ここで重要なのは「空理空論」ではなくて「データによる実証」です。その結果は……アイスランドに深刻な健康危機は発生しませんでした。経済も「思いもよらぬ」回復をしています。苦境の中でも保健医療支出を20%も増やすことで国民の健康を守り、大きな銀行でも潰す、という国民の決断は、どうやら正しかったようです(IMFはその逆を求めたのですが)。
 その逆のシナリオが、ギリシアです。IMFの勧告を受け入れて緊縮財政を頑張った結果、社会保護システムは崩壊し、2009~11年の2年でホームレスは25%増、07~11年の4年で殺人事件は2倍に増加しました。政府と銀行の愚行の代償を、社会の弱者が支払わされました。これまた著者にとっては貴重な実験室です。
 そうそう、本書で印象的なのは、データだけではなくて「現場感覚」も示されていることです。それは本書の著者らが、ホームレスとか病弱を体験し、さらに現場で患者や貧困者と身近に付き合っているからでしょう。
 そして本書の最後に、統計学者W・E・デミングの印象的な言葉「神の言葉は信じよう。しかしそれ以外の者は皆データを示すべきだ」が紹介されます。そして、政治家や経済学者が、いかにデータを示さずにイデオロギーだけを語るか、も。だけどそれでは民主主義はうまく機能しないのです。データが示されなければ、主権者(国民)は正しい判断ができないのですから。
 ということで、実証されたデータに基づいて「不況に対する処方箋」が示されます。「有害な方法は採らない」「人々を職場に戻す」「公衆衛生に投資する」。そして「何が本当の回復かを忘れない」。株価やGDPの数字は、「目的」ではありません。「人の幸福」「人の健康」の回復こそが「不況対策の目的」のはずです。それとも為政者は、人よりも数字の方がお好き?
 ところで、冒頭で私は「アベノミクスは成功している」と書きましたが、本書では「財政出動」だけではなくて「公衆衛生に投資すること」が非常に重視されています。だとすると、それを削ろうとしている日本政府の態度は、「国民の健康」のことはあまり考えていない、ということになりそうです。となると、アベノミクスは短期的には成功しても長期的な成功が望めるかは、怪しくなりそうです。