瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

歩行瞑想

2005年03月05日 | 瞑想日記
◆免許を持たない、車もない
ここには初めて書くかもしれないが、私は車があまり好きではない。いまどき珍しく免許も持っていない。家に車もない。家が東京の下町で、駅まで徒歩3分なので、日常生活ではほとんど必要を感じない。ちょっと不便だったのは、子どもが小さかったころの旅行くらいか。

家族で外食するときなども近くだったらみんな自転車でいく。今日も一駅先の焼肉屋にでかけたが、自転車が一台足りず、私だけ歩きだった。まあ、徒歩10分少々のところだが。(食事は、ある程度はセーブできたかな)

◆歩行瞑想
そこで本題。歩くとなればもちろん歩行瞑想だ。最近思うのは、日常生活の中でのサティが今ひとつ出来ていないということだ。歩行中というのは、比較的サティを持続しやすい。まずは歩行でしっかりサティをしなくてはと思った。座禅時の瞑想での、ある程度の深まりが、日常のサティへの刺激になっている。 

『自我と〈力動的基盤〉』の中にヴィパッサナー瞑想についてのこんな言葉があった。

「受動的瞑想(ヴィパッサナー瞑想)では、非選択的な注意を維持する実践が行われる。その実践において、瞑想者は、開かれて不動の目撃者の姿勢を守り続ける。そこでは、おこたりのない注意によって、どのようなものが心のなか、ないし心の前に観察されても、決してそれらに反応したり、動かされたりすることはない。さまざまなイメージや感情や思考が、意識にその姿を現すが、それらは決して中断されることなく、また夢中になったり追求されたりすることもなく、十全な意識によって目撃されるのである。」

ヴィパッサナー瞑想についてすでに知っていることだが、ともあれ改めて別の表現で読むと、それがまた刺激になるようだ。歩くという単純な動作のなかで頭は比較的自由になる。だからこそ、中心対象を設定しないで、「意識にその姿を現すさまざまなイメージや感情や思考を十全な意識によって目撃する」サティを続けやすい。「非選択的な注意維持」をしやすいのだ。

日常のサティの方も何とか深めていきたい、と思う。明日は久々に、荒川の土手を歩いてみよう。
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最近読んだ本など

2005年03月05日 | 読書日誌
◆少し忙しく
一週間の間隔が空いてしまった。少し忙しく、パソコンに向かって何か書こうかと思う頃には眠気が来るという毎日だった。瞑想は、毎日という分けにはいかなかったが続けていた。今朝はまず30分。しかし仕事の関係を中心に少し思考が多かった。瞑想を続ければ続けるほど、徐々にサティや集中の力が増していくことは実感するが、同時に瞑想が、その時々の精神状態にかなり影響されるのも確かだ。それにしても最近の私にとって瞑想はますます重要な意味を持つようになっている。

最近、食事の量が少し多くなっている。1キロとまではいかないが体重も増加気味だ。二人の子どもたち(長男の大学と次男の高校)の受験も終わり、今日はお祝いで子どもたちの希望通り焼肉料理を食べにいくことになりそうだが、私は肉はできるかぎり遠慮したい。誘惑に負けないだけの自信はないが。

◆最近読んだ本
最近読んだ本は、宮元啓一の『ブッダ・伝統的釈迦像の虚構と真実』や、檜垣立哉の『ドゥルーズ』など。ドゥルーズに関する本を読むのは初めてだが、この入門書を読むかぎり実にくだらないと思った。精神の成長とか覚醒などへの認識や理解がないと、哲学はこのような空しいあがきにも似た形態に陥っていくのかと思った。ドゥルーズは、ベルグソンの系譜を受け継ぐと言われるが、ベルグソンの生命の哲学には、何かしら深く学びたいと感じさせる魅力がある。

一昨日あたりからは、マイケル・ウォシュバーンの大著『自我と〈力動的基盤〉』を読み始めた。ユング派の考え方を基盤としながらトランスパーソナル理論を構築し、この分野ではケン・ウィルバーと並び称される。しかも、ウィルバーをかなり意識し、前半は彼の理論と対比させ、その違いを際立たせながらながら自分の理論を論ずるという方法をとっているので、非常に興味深い。詳しくは、読書日誌エポケーの方で触れていくことになるが、自分の瞑想などの面で影響を受けた点などは、こちらにも触れていくつもりだ。
コメント (2)
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