◆免許を持たない、車もない
ここには初めて書くかもしれないが、私は車があまり好きではない。いまどき珍しく免許も持っていない。家に車もない。家が東京の下町で、駅まで徒歩3分なので、日常生活ではほとんど必要を感じない。ちょっと不便だったのは、子どもが小さかったころの旅行くらいか。
家族で外食するときなども近くだったらみんな自転車でいく。今日も一駅先の焼肉屋にでかけたが、自転車が一台足りず、私だけ歩きだった。まあ、徒歩10分少々のところだが。(食事は、ある程度はセーブできたかな)
◆歩行瞑想
そこで本題。歩くとなればもちろん歩行瞑想だ。最近思うのは、日常生活の中でのサティが今ひとつ出来ていないということだ。歩行中というのは、比較的サティを持続しやすい。まずは歩行でしっかりサティをしなくてはと思った。座禅時の瞑想での、ある程度の深まりが、日常のサティへの刺激になっている。
『自我と〈力動的基盤〉』の中にヴィパッサナー瞑想についてのこんな言葉があった。
「受動的瞑想(ヴィパッサナー瞑想)では、非選択的な注意を維持する実践が行われる。その実践において、瞑想者は、開かれて不動の目撃者の姿勢を守り続ける。そこでは、おこたりのない注意によって、どのようなものが心のなか、ないし心の前に観察されても、決してそれらに反応したり、動かされたりすることはない。さまざまなイメージや感情や思考が、意識にその姿を現すが、それらは決して中断されることなく、また夢中になったり追求されたりすることもなく、十全な意識によって目撃されるのである。」
ヴィパッサナー瞑想についてすでに知っていることだが、ともあれ改めて別の表現で読むと、それがまた刺激になるようだ。歩くという単純な動作のなかで頭は比較的自由になる。だからこそ、中心対象を設定しないで、「意識にその姿を現すさまざまなイメージや感情や思考を十全な意識によって目撃する」サティを続けやすい。「非選択的な注意維持」をしやすいのだ。
日常のサティの方も何とか深めていきたい、と思う。明日は久々に、荒川の土手を歩いてみよう。
ここには初めて書くかもしれないが、私は車があまり好きではない。いまどき珍しく免許も持っていない。家に車もない。家が東京の下町で、駅まで徒歩3分なので、日常生活ではほとんど必要を感じない。ちょっと不便だったのは、子どもが小さかったころの旅行くらいか。
家族で外食するときなども近くだったらみんな自転車でいく。今日も一駅先の焼肉屋にでかけたが、自転車が一台足りず、私だけ歩きだった。まあ、徒歩10分少々のところだが。(食事は、ある程度はセーブできたかな)
◆歩行瞑想
そこで本題。歩くとなればもちろん歩行瞑想だ。最近思うのは、日常生活の中でのサティが今ひとつ出来ていないということだ。歩行中というのは、比較的サティを持続しやすい。まずは歩行でしっかりサティをしなくてはと思った。座禅時の瞑想での、ある程度の深まりが、日常のサティへの刺激になっている。
『自我と〈力動的基盤〉』の中にヴィパッサナー瞑想についてのこんな言葉があった。
「受動的瞑想(ヴィパッサナー瞑想)では、非選択的な注意を維持する実践が行われる。その実践において、瞑想者は、開かれて不動の目撃者の姿勢を守り続ける。そこでは、おこたりのない注意によって、どのようなものが心のなか、ないし心の前に観察されても、決してそれらに反応したり、動かされたりすることはない。さまざまなイメージや感情や思考が、意識にその姿を現すが、それらは決して中断されることなく、また夢中になったり追求されたりすることもなく、十全な意識によって目撃されるのである。」
ヴィパッサナー瞑想についてすでに知っていることだが、ともあれ改めて別の表現で読むと、それがまた刺激になるようだ。歩くという単純な動作のなかで頭は比較的自由になる。だからこそ、中心対象を設定しないで、「意識にその姿を現すさまざまなイメージや感情や思考を十全な意識によって目撃する」サティを続けやすい。「非選択的な注意維持」をしやすいのだ。
日常のサティの方も何とか深めていきたい、と思う。明日は久々に、荒川の土手を歩いてみよう。