◆瞑想と感じやすさ
帰宅後20分ほど瞑想。22時頃から15分ほど瞑想。日によって違うが、しかし最近は思考の団子状態ということはあまりない。思考が起こってもサティが入ることが多くなった気がする。課題は、こういう状態の影響を日常生活の中にどれだけおよぼしていけるかだろう。
瞑想時は、内面にも外界にもかなり敏感になっている。いつもは何も感じないようなちょっとした物音にもびくりとすることが多い。瞑想中は、それだけ日常の防衛の壁が弛んでいるということだろうか。それと関係するかどうか分からないが、最近いろいろなことに感じやすくなっている。少し辛い思いをすることもあるが、そういう時は、そう感じている自分をサティするように心がけている。
◆猫と私のいのち
猫を三匹飼っている。その一匹は最近毎日のように私の書斎に来て、椅子の下に寝転がったりしている。パソコンに疲れて、椅子の下の猫をひざの上に乗せた。猫のからだの温かさが手や腹に伝わった。呼吸や咽喉のごろごろいう音などが感じられた。そのとき、猫を流れているいのちと私のいのちとが、まったく同質のいのちと感じられた。あたりまえのようでいて不思議に新鮮な感覚だった。
「同じ無明のいのちを生きている」と思った。どこから来るのか分からないいのちを生かされていることの不思議。ただ、この表現は私にとって完全にニュートラルである。猫と同質であるいのちの不思議を生かされていることの喜びを語っているのでもないし、猫と同じ無明のいのちを生きていることの苦を語っているのでもない。猫との違いは、いのち=からだと分離した自我を生きているか、いないかだけであった。
帰宅後20分ほど瞑想。22時頃から15分ほど瞑想。日によって違うが、しかし最近は思考の団子状態ということはあまりない。思考が起こってもサティが入ることが多くなった気がする。課題は、こういう状態の影響を日常生活の中にどれだけおよぼしていけるかだろう。
瞑想時は、内面にも外界にもかなり敏感になっている。いつもは何も感じないようなちょっとした物音にもびくりとすることが多い。瞑想中は、それだけ日常の防衛の壁が弛んでいるということだろうか。それと関係するかどうか分からないが、最近いろいろなことに感じやすくなっている。少し辛い思いをすることもあるが、そういう時は、そう感じている自分をサティするように心がけている。
◆猫と私のいのち
猫を三匹飼っている。その一匹は最近毎日のように私の書斎に来て、椅子の下に寝転がったりしている。パソコンに疲れて、椅子の下の猫をひざの上に乗せた。猫のからだの温かさが手や腹に伝わった。呼吸や咽喉のごろごろいう音などが感じられた。そのとき、猫を流れているいのちと私のいのちとが、まったく同質のいのちと感じられた。あたりまえのようでいて不思議に新鮮な感覚だった。
「同じ無明のいのちを生きている」と思った。どこから来るのか分からないいのちを生かされていることの不思議。ただ、この表現は私にとって完全にニュートラルである。猫と同質であるいのちの不思議を生かされていることの喜びを語っているのでもないし、猫と同じ無明のいのちを生きていることの苦を語っているのでもない。猫との違いは、いのち=からだと分離した自我を生きているか、いないかだけであった。