人が自己意識を持つようになったことと、人が言葉を持つようになったこととには、深い関係がある。少なくとも言葉を持つことによって自己意識は、鮮明な自覚となった。「私は私であり、他人ではない」という意識は、言葉でそう確認できるようになったからこそ明確な自覚となったのだ。
ところで少しでも瞑想をすれば誰でもいやというほど思い知ることがある。私たちは、言葉による思考を意識で制御しているように感じているが、実際はまったく違うということに。思考は、闇から突然のように現れて、瞬く間に闇に消える。思考に巻き込まれまいと思っているのに、いともたやすく思考に巻き込まれていく。はっと我に返ったとき、思考がまるで半ば自己展開していたかのようにすら感じる。
思考は、自己意識やエゴに深く関係している。思考の多くは、自分にとっての願いと恐れ、利害得失をめぐって展開する。にもかかわらず思考は、自分の意識を超えた闇から来て、闇に去るように見える。そして、自分で制御できない思考やそれに伴う感情に振り回されて不幸になったりする。というより、私たちは人生の大半をそうやって生きている。ほとんど受動的に、闇からやってくる思考の渦に無自覚に身をまかせ、流されながら一生を終わってしまう。
瞑想は、闇からやってくる思考の渦に光をあてる。光はどこまで届くかわかならい。しかし、少なくとも無自覚のうちに渦巻いていた思考に光を当てることはできる。それが気づきであり、サティだ。その気づきの光が長くなればなるほど、思考の渦は静まっていくだろう。静まればそれによって、今まで見えなかった流れの底が透き通って見えてくるだろう。
生きるということは、わけのわからないうちに思考の渦に巻き込まれ、それによって泣いたり笑ったり、悲しんだり、喜んだり、苦しんだりしているうちに死んでしまうということだ。瞑想は、思考の渦を静める。それは、わけもわからず巻きこまれていた渦から自由になるということでもある。
★最近、以前に比べればブログを更新することが多い。それで感じるのは、やはり私にとって書くことが、修行や瞑想の一部となっていることだ。書くことによって日常的な意識から舞い戻り、また書くことによって気づきが深まる場合もある。
ところで少しでも瞑想をすれば誰でもいやというほど思い知ることがある。私たちは、言葉による思考を意識で制御しているように感じているが、実際はまったく違うということに。思考は、闇から突然のように現れて、瞬く間に闇に消える。思考に巻き込まれまいと思っているのに、いともたやすく思考に巻き込まれていく。はっと我に返ったとき、思考がまるで半ば自己展開していたかのようにすら感じる。
思考は、自己意識やエゴに深く関係している。思考の多くは、自分にとっての願いと恐れ、利害得失をめぐって展開する。にもかかわらず思考は、自分の意識を超えた闇から来て、闇に去るように見える。そして、自分で制御できない思考やそれに伴う感情に振り回されて不幸になったりする。というより、私たちは人生の大半をそうやって生きている。ほとんど受動的に、闇からやってくる思考の渦に無自覚に身をまかせ、流されながら一生を終わってしまう。
瞑想は、闇からやってくる思考の渦に光をあてる。光はどこまで届くかわかならい。しかし、少なくとも無自覚のうちに渦巻いていた思考に光を当てることはできる。それが気づきであり、サティだ。その気づきの光が長くなればなるほど、思考の渦は静まっていくだろう。静まればそれによって、今まで見えなかった流れの底が透き通って見えてくるだろう。
生きるということは、わけのわからないうちに思考の渦に巻き込まれ、それによって泣いたり笑ったり、悲しんだり、喜んだり、苦しんだりしているうちに死んでしまうということだ。瞑想は、思考の渦を静める。それは、わけもわからず巻きこまれていた渦から自由になるということでもある。
★最近、以前に比べればブログを更新することが多い。それで感じるのは、やはり私にとって書くことが、修行や瞑想の一部となっていることだ。書くことによって日常的な意識から舞い戻り、また書くことによって気づきが深まる場合もある。