瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

泡沫のような思考としての「私」

2009年06月08日 | 瞑想日記
エックハルト・トールの『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』は、去年の11月に一度読んだだけであった。再度、通して読んでみたいと思いカバンの中にいれた。読んだのは通勤電車の中だけだったが、今日は、前にアンダーラインを引いたところを中心に拾い読みしてみた。

忘れていたり、覚えていたにしてもこれまでと違った印象で迫ってくる文章も多かった。去年の11月に比べれば、受け取る私自身もかなり変化しているのだろう。

「ほとんどの人は依然として、絶え間ない思考の流れ(大半が無意味な繰り返してある)や衝動的思考に自分を完全に同一化している。この思考プロセスとそれに付随する感情から離れて『私、僕(I)』は存在しない。これはスピリチュアルな無自覚状態を意味する。」(P39)

「『自分の頭のなかの声』が実は自分ではないと気づくと、すばらしい開放感を味わう。では自分とは何なのか? 自分とは自分を見ている者だ。思考よりも前にある気づきであり、思考が――あるいは感情や知覚が――展開する場である。
 エゴとは、形への自分の同一化にすぎない。その形とは何よりも思考の形である。」(P29)

「気づきのない思考こそが人間の主たるジレンマである」(P42)


「気づきのない思考」の状態とは、昨日、ブログに書いたたとえでいえば、思考の渦に無自覚的に身をまかせている状態であろう。闇から現れ、闇への消えていく無限の思考の流れである。それに気づいていないということは、ほとんど夢の中にいるのと同じなのだ。

自分のもののようでありながら自分のものではない思考。それに同一化している。自分で制御できない思考の流れを「自分」であると勘違いしている。それは「自分」という形をなしているように見えるが、実は闇から現れ、闇へと消えていき、留まることを知らない、実体のない、泡沫のような言葉の流れに過ぎない。

「私」が「私」であることには何の根拠もない。それは、「私」を形づくっているのが、泡沫のような思考にすぎないからだ。それに執着することの愚かさ。
コメント
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