瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

なせ降参surrenderするのか

2009年06月06日 | 瞑想日記
なぜ降参surrenderする必要があるのか。それは敗北ではないか。多くの人がそう思うだろう。私も、日常を生きるなかで少しもsurrender(降参、明け渡し)などできていない。しかし、surrenderしてしまえば、大きな変化が起るのだと思う。

生きるということは、いちばん根本のところでsurrenderするほかないように出来ているらしい。死に対しては、だれもがsurrenderするしかないからだ。どんなにあがこうと抵抗しようと死はやってくる。私たちが抱いている日常的な価値(幸福、健康、財産、名誉など)は、死を前にして一切が無になる。surrenderするほかないのだ。そういうことを前提にして「生きる」ということは成り立っている。それなのに、いずれ失うものを必死で守り、執着するから苦しみが生まれる。surrenderするほかないのなら、最初からsurrenderしていればよい。死という前提を受け入れて生きればよい。

しかし、悲しいかな私たちは、その前でただ降参するしかない死を「先のこと」として忘れようとする。完璧に抑圧する。抑圧は、成功するかに見える。が、人生を40年、50年、60年と生きるうちには様々な苦しみが襲ってくる。それが、死といういちばん大きな苦しみを思い起こすきっかけとなる。それらが私たちに、目覚めを促すのだ。

何への目覚めを促すのか。surrenderしなければ苦しみが生まれる。surrenderすれば、「生きて死ぬ」という真実が受容される。抵抗がなくなる。無理がなくなる。おそらく、無理やあらがいのない生き方は、かぎりなく自由な生き方なのだ。そういう生き方に目覚めるということなのだ。

若くして、「生きて死ぬ」という真実に徹底的に目覚めてしまった人がいる。それがラマナ・マハルシだ。→覚醒・至高体験の事例集:ラマナ・マハルシ
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通りすがりさんへ、臨死体験の研究について

2009年06月06日 | サイト更新管理
通りすがりさん、コメントありがとうございます。

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